海が吠えた日 第50回 「祖父の機転に助けられ」 六十代 女性

2011年7月26日

当時私は海部高等女学校の一年生でした。南海道地震発生は二学期末テストの日で、午前三時ごろから起きて勉強しておりました。

 

当時伯父が徳島の学校へ毎日一番の汽車で通学していたので、祖母がいろりで火を焚きお茶を沸かしていました。ものすごい揺れで祖母はあちらこちらとひょろけながら台所からほうろくを持って来て、いろりの火にかぶせました。私は外へ飛び出しました。

 

当日父は夜釣りでスルメ掛けに行って留守でした。祖父は地震があまり大きいので、津波が来るかも分からないから杉谷のS(母の実家)へ逃げて行くようにと言って、家族七人が上の町を走ったように覚えております。天理教会の付近についたころ、浜の方からゴーという音が聞えてきました。

 

母の実家まで行くと、あまりにも静かで津波など嘘のような気がしました。でもしばらくすると知り合いの人たちが全身びしょぬれで青白い顔で逃げて来ました。家の前では大きな焚火をして濡れた着物を乾かしたり、借り物の衣服で暖を取っておりました。びっくりして見ているうちに夜が明け、父が尋ねて来てくれ子供心に安心し嬉しかったです。

 

我が家のことを尋ねると土間に少し潮がはいり、芋壼にも少々の潮が来てたとのこと。それじゃいつでも家に帰れると思うとすぐにでも帰りたくなり、母に早く帰ろうと言ったことを思い出します。

 

学校のことが気になりましたが、テストも無く二学期は中間テストだけの通信簿でした。当時はバス通学していたのですが浅川の入口の粟ノ浦までしかバスが行かず、粟ノ浦から大里(海南町)まで歩いて通学しておりました。

 

浅川の津波跡を見て再度津波の恐ろしさを知りました。死者を担架で運んでいるのを見たり、上級生二人が亡くなり悲しみにくれ、今でもその方々の顔が目に浮かんできます。

 

◆「海が吠えた日」は、牟岐町においてまとめられた「南海道地震津波の記録」です。

詳しくは、牟岐町ホームページをご覧ください。

 

【参考サイト】

牟岐町ホームページ

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