海が吠えた日 第52回 「悲惨な大津波に襲われて」 八十代 男性

2011年8月9日

昔の浦崎の鼻より西の浜を望む
昔の浦崎の鼻より西の浜を望む

昭和二十一年十二月二十一日。これは忘れることもできない厄日である。私は商用で徳島へ行くべく午前四時前に目が醒めた。持参する品物を揃えていると、「ゴウー」とものすごい地鳴りと共に大地震となり、立っていることもできない有様である。

 

家内は身持ちで大きな腹をかかえていた。時計は四時十分すぎであった。「これは大変だ、外に出るか」と家内に言うと、家内は「外は瓦が落ちて来てよけい危いぜ」とのこと。この時、浜の納屋の二階に寝ている弟、妹のことが気にかかり、とっさに家を後にして浜の納屋に来ていた。

 

「Y、C」「はい」「起きているか」「はよう出てこい」「津波がくるかも分からん。兄ちゃんは」「兄ちゃんまた寝ている」「早う起こせ」二人はあわてふためいて二階から降りて来た。「大谷のRの家へ逃げて行け」と指図して浜へ出た。

 

浜では四~五人が家から逃げて来て焚火をしている。「おまはんら津波が来るぜ。早う逃げなんだら」と言い残し家に帰る。

 

家内は出産用具と子供の寝具を整えて待っていた。「さあ逃げよう」と我が家を後にした。西念寺前まで来ると西の東地区から逃げて来た人たちでごった返している。元木のあわえからCが泣きながら逃げて来た。兄ちゃんの所へ行こうにも田圃の中ははや潮が来て歩けないとのことであった。

 

家内とCを連れ大きな包みをかついで八坂橋を渡り、現在の私の冷蔵庫前まで逃げのびた。橋の下は見えないがごうごうと音を立てて潮がこんでいた。大谷の田圃の方で「助けて、助けて」と悲鳴が聞える。しかしどうすることもできない。耳を覆いながら待つこと一時間余り、次第に東の空が明るくなってきた。

 

坂をくだって来てまたもびっくりした。まず我が家の方を見た。国道まで家が倒れ歩くことができない有様。道路より南側はほとんど倒れて完全な家は一軒もない。ようやく我が家にたどり着く。母屋は国道に倒れており、屋敷跡には南隣のKの家が居坐っている。

 

防潮堤から外は、あれだけあった加工場や舟小屋、網納屋は一軒も無くきれいな浜と化してしまった。私の加工場も一棟だけ西念寺前まで流失して来て二階だけが居坐っており、残りの加工場は跡形もなく流失してしまった。

 

親類からの差入れや炊出し等で腹をつくった。わずか二時間余りの間に西浦の町は一大修羅場と化してしまい、戦争には負けるし財産はもくずとなり、これから先どうして復旧させたらよいか頭の中はまっ白となってしまった。しかし落胆しては駄目である。

何が何でも石にしがみついてでも、家族が生活して行かねばならない。幸い兄弟姉妹が一致団結して家業に励み明るいきざしが見えてきた。

 

あれから数えて五十年、西浦で九名の尊い犠牲者が出ましたがその中に私の祖父も含まれております。

 

◆「海が吠えた日」は、牟岐町においてまとめられた「南海道地震津波の記録」です。

詳しくは、牟岐町ホームページをご覧ください。

 

【参考サイト】

牟岐町ホームページ

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