海が吠えた日 第55回 「南海大震災思い出の記」 六十代 男性

2011年8月30日

昌寿寺の梅厳和尚の碑
昌寿寺の梅厳和尚の碑

今から約半世紀前の昭和二十一年(一九四六)十二月二十一日の子の刻の終わりに近づいたころであったが、不思議なほど、鮮明に記憶していることがある。それは当時十二歳で国民学校六年生の私が尾篭な話で恐縮だが、西の中の旧T氏宅の古い土蔵の壁に向かって寒さと恐怖におののきながら放尿していたという忘れ難い記憶である。

 

そのころ私は、この土蔵の前のD家(現F家の駐車場)に祖母と母と三人で住んでいた。私の祖母Aの実家、N家は二軒隣にあり、そこには東京で戦災に遭った二十一歳の叔母Kが、ガランとした古びた広い家に一人で寝泊りしていたので夜は一緒に泊っていた。

 

その時代の便所は母屋からかなり離れた所にあり、恐ろしくて玄関から旧国道を隔てた土蔵に前述の行為に及んだ次第である。

おりしも有り明けの寒月が耿々と照り輝き、その月明かりは美しさを越え、時々迷走する稲妻が無気味さを倍加し、筆舌に尽くし難い恐怖心に駆られ、私は金縛りにあった不動明王のごとくに身じろぎ一つでぎずに立ちすくんでいた。

 

それからおよそ四時間半後の明け方、私は現在の居住地である昌寿寺山頂の麦畑に避難して来た二百名にも達する人々と焚火で暖を取りながらも、冬の夜明けの寒気にうち震えながら轟音と共に眼下に襲来した巨大な水塊に魂を奪われていた。

 

それは普通最大と言われている二回目の津波だったと思われるが、海面が異常に膨張したかと思うと、無数の海坊主が海辺近くの家並みを蹂躙している光景はさながら阿鼻叫喚の地獄絵のようであった。これが死者五十二名、倒壊家屋二百六十五戸、半壊家屋百六十二戸、流失家屋百九戸等甚大な被害をもたらした大惨事、M八・一の南海大地震により来襲した大津波であった。

そして流失されたり全壊あるいは床上浸水のため住むべき家を失った人は多数この地で焚火をしながら寒い幾日を過したのである。

 

順不同で申し訳ないが次に前途の立小便の箇所から、地震発生時及びその後の様子と昭和二十一年の牟岐町の師走の有様を記憶の糸をたぐり寄せながらまとめてみたい。

それは大地が割れ裂けんばかりの激震であった。

 

N家の表座敷で就寝していた私は仰天して飛び起き寝惚け眼を擦りながら子供特有の、身軽さで、いち早く道路に飛び出した。傍らの家屋や電柱が今にも地に伏し、倒壊せんばかりの激動が数分続いたのだろうが、その間は荘然自失、ただ恐ろしさで、うち震えたに相違ない。

 

地震発生後から津波の来襲するまでの時間は約二十分と観察されているが、その間に私にとって生涯忘れることのできない強烈な思い出がある。それは旧M氏宅の西隣にあったT氏宅所有の別棟(現S氏宅)の南側の庭にあった井戸に釣瓶を投げ込み、カラカラと音がしたのを聞き「井戸水が無いぞ!津波が来るから早く逃げろー」と大声で叫んだ人がいた。

 

その人物は当時その家に借家住いをしていて牟岐駅に勤務していたT氏(現在小松島市在住)と思われたので聞きあわせたところ、地震直後の件は記憶にないが「二~三日前から井戸水が少なくなってきていた」という証言を戴いた。

 

私の記憶違いなのかT氏が忘却してしまったのか今となって確める術がないのは、いささか残念である。しかしいずれにしても井戸水が数日前から枯れ始めていたことが確認された。

 

またその直後、浜の方から漁業者らしき人で「津波じゃ津波じゃ」との絶叫を聞いた。声の主はK氏かT氏の声であったと思われる。さあ、それからが大変、転ぶように家に走り帰り、その旨を伝え何は取りあえず、祖母と私の二人が先に家を出た、全体的にはかなり、早い避難だったと思われるが、その時には既に多くの人々が八坂橋方面や、北の方向に動ぎ出していて、大八車のガラガラという乾いた音を背に聞きながら新開堂脇からF鉄工所横を経て昌寿寺山に駆け登ったのであった。

 

その途中現在のNTT宿舎近くで「助けてくれ」と言う耳朶を打った叫び声は今も忘れ去ることはできない、その老母と覚しき人は西の西のN氏宅近くのあわえに住んでいて犠牲者となったMさん(俗にO婆さん)ではないかと推定されている。

 

それはともかく母TとM叔父それにK叔母の三人が昌寿寺山に登って来たのは私たち二人よりも時間にして十分も後だったであろうか。玄関からは潮のため出ることはかなわず止むなく朝日会館(現K宅)のあわいを通ってH米店横からH氏宅の横を経由して、昌寿寺山頂に至ったが、この時にはF鉄工所付近の道路には潮が来ていた。

 

また昌寿寺の登り口には大勢の人が集まり、M先生の話では人々が殺到していて登られず今の隣保館横の禿山の方に迂回して逃げたそうだ。そうすると同氏の避難した時刻は母一行よりも少し後であったこととなり、その短時間内での混雑ぶりが想像される。

 

昌寿寺山頂に逃げた人たちは西の中の東側半分と西の東の大半の人々が逃げて来ていたようだった。また、先般叔母に所用があり電話した折、私の全く未知だった事実が浮かび上ってきた。それは前述の助けを求めていて犠牲者となったのはMさんではなく、西の西のKさんの母でAさんではなかったかということである。

 

と言うのは私たちより後から登って来たM叔父が必死で助命を請うて絶叫していた老女を下山して救助したということを妹のK叔母が幾度も兄から聞いたと電話口で熱っぽく語ってくれたからである。

 

叔父Mは五年前に他界していて確かめようもない。Kさんは百歳近くまで生存され昨秋他界されたが娘のMさん(当時十八歳)の話によれば、震災の前日、東浦に住んでいた祖母のTさんは郵便局での用件を済ませて娘の婚家であるK家にやって来て、遅くなったので、その夜一泊し翌朝の大地震に遭遇した。

 

地震発生後、程なく祖母、娘、孫娘の三人は手に手を取り合って八坂橋方面に避難をしたが、その橋の手前で津波に襲われ離れ離れになり、後から押されるように親類のT氏宅に来てTさんがいないのに気付いた、多分水死したと半ば諦めたが朝になって一縷の望みをかけて捜査を続けていたところ、昌寿寺の庫裡に寝かされているのはTさんではないかと人伝に聞いて無事なTさんを発見した。

 

うす暗い部屋に横たわって手当をうけている、傍らに鍼医者のO氏と昌寿寺住職の二人がいた。御礼を申し述べて連れ帰ろうとしたが火傷による水膨が酷く歩行ができなかった。なお七十歳近くの老女で動転していた祖母を助けてくれた相手が誰であったか、ずーっと不明で約半世紀後の今になり始めて分かったということであった。

 

ただ不思議に思われるのはTさんが救助された後、いつ、どこで、火傷したのかという点である。寒さに凍え死にそうなので焚火に近づけ暖めすぎたのではあるまいか?。その間の事情は現在も不明である。

 

私たち一家は二十一日からしばらく檀那寺の昌寿寺の庫裡に泊めていただいたが狭くて夜分も横になれない状況だったので、私と叔母の二人は、家が住めるような状態に復するまで、H米店前のD氏宅でお世話になった。とにかく、そのころの牟岐町の光景は言語に絶する。

 

国民学校(現小学校)の校庭や大川橋の上には何屯という船が横転していたり、川長の田圃には小舟が幾隻も流れ込み、牟岐港内や役場付近も目を覆うばかりの惨状であった。私の住んでいた浜崎に限定しても旧国道を含む海岸寄りの家々は全て流失し、全半壊、床上浸水のいずれかの大被害を被っていた。

 

散乱した家屋の無惨な残骸、潮水に濡れた家具等が道々にあふれ見える物すべて異常な有様であったが奇妙なことにそうした視覚面の印象よりも消えやすい嗅覚による、それが遥かに強く残っている。浸水のため文字通り味噌も糞も一緒になって四散した品々から発する異様な臭気、とりわけ乾燥しにくい畳から出る異臭、悪臭は他に比類すべきものが無く今でも強烈に鼻を打つ。

 

寡聞にして非才の私の言語、知識、感覚を遥に超越して表現する方法を知らない。

そして半世紀、大震災の痕跡はほとんど町内には見られない。その形跡を象徴的に表現しているのが最近随所に設置された津波の水位を示す碑であろう。それはともすれば忘れ勝な津波の恐ろしさを人々におもい起こさせ日ごろからその対策と心の準備の必要性を訴えている。

 

住民の生命、財産を守るため、年月、経費を要しても是非防災対策を講じ実現してほしい、それが行政の最大の責務であるはずだ。

 

◆「海が吠えた日」は、牟岐町においてまとめられた「南海道地震津波の記録」です。

詳しくは、牟岐町ホームページをご覧ください。

 

【参考サイト】

牟岐町ホームページ

地図

昌寿寺山

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