海が吠えた日 第56回 「津波の朝」七十代 男性

2011年9月6日

N宅前の最高潮位標
N宅前の最高潮位標

当時はM町の木造二階建て、家族は祖母七十二歳、父五十一歳、母四十七歳と前年海軍から復員した私二十三歳、弟二十歳、妹は旧海部高女一年、末弟は牟小三年で計七名構成でした。

 

あの夜妹は二階で次の試験勉強で南側に、私は北側の部屋、他は階下で寝み、弟はするめ釣りに海へ出て不在でした。グラッグラッと大きく揺れてギチギチバリバリと震う、一瞬この家も戦争でやっと残ったのにこれでつぶれるのか、大地震だと妹に声をかけ雨戸を開けようとしたが駄目、段梯子の揺れが止まるや妹の手をひき降りた。

 

停電で真暗戸外へ出て近所の人たちと恐怖を分けあったが、「津波が来るぞう」の大きい声に急ぎ帰宅して逃げねばならない。

 

祖母を連れて妹弟で三人は昌寿寺山へ急げと父の指図、母は胴巻きに貴重品と位牌を持ち、続いて祖母等を追った。父と話して前と後の雨戸は海水が流れるように開けた。箪笥の引き出し下二段を出して二階へ運び、さあ脱出に当たって昨夜配給のきざみ煙草やキセルとマッチを持った。

 

暁暗を走る道に背後からゴーゴーと音が迫ってくる。全く後を振り向かず、逃げる人々と共にF鉄工所を左折し、昌寿寺の山道を目指したが人の群れで登れないので北側に回った。そこで家族揃ったわけ。妹の証言によると、私は大布団をかついで来たのでこれをかぶった由(背後も見ずに一目散に走ったのはそのためだったが、夢中で覚えていなかった)。

 

やがて海水が瀬戸川を逆流して付近が湖水のようになりまた引潮となった。駅の方から汽笛が響いたのが大きな安心感を与え、焚火をして輪になって災害の恐しさを話しあったが、そこで私の配給タバコは皆さんのやすらぎの一服となり、煙と共にすべて無くなったが憩いの役に立った。(註)気温一度、日の出午前七時三分満潮午前三時

 

夜明けを待って自宅がどうかと急いだ。Hさんの横の路面が雨後のように濡れていた。潮が流れたのだろう。帰宅すると雨戸を開いたため海の潮が流入、床上約三十センチか畳と座板や家具が散乱し泥土がたまっている。

 

畳や建具は使えないが家屋の現存を神仏に感謝した。裏のKさんは波にもまれたが、私宅のコンクリート塀が手にさわり、私宅へ越して脱出した由(Kさん宅は三名亡くなった)。戸外へ出ると「助けてくれと言いよるぜ」牟岐津神社の鳥居南側の倒壊した家屋用材や壁に押しつぶされた下から女の幼児の泣き声がもれる。

 

近所の人や青年団員らとひとつひとつをはぎとるように廃材を除く。二歳か三歳かこの子は泣き声と共に助かったが、喜びもつかの間その母のOさんがその子をお腹の下に抱いて外圧をしのいで、幼ない生命を守り絶命した。母の強さ、母の愛をつぶさに教えられた。

 

その時点で津波の惨状は分かったけれど、人的な被害等知らなかった。家族でするめをかけに出た弟の安否、どうだろうと不安がひろがった。

 

海上にいた弟(一九八八年没)は友人と前夜に出羽下へ出漁、スルメは大漁だったが明け方に海水がふくれ上り、船のエンジンをかけたような音がひびき、東方の空に発光現象が見られた。

 

そのうち出羽小学校への石段に、提灯の灯が続くのが見える。さては津波かと直感し帰りを急いだが、浮流物が舟に当たるなどで、朝七時ごろにようやく西浦の浜に安着した。弟は「父母や兄弟は死んだやろうな」と思うし、こちらは「海上の弟は流されて哀れ海の藻屑となった」と歎いていた矢先であり、互いに無事を喜んだ。

 

その時も海面は不安定で沖の一文字堤防が海面に浮き沈む変動を繰り返し、大小の余震がありデマが流れ、人々の不安がつのる朝だった。

 

◆「海が吠えた日」は、牟岐町においてまとめられた「南海道地震津波の記録」です。

詳しくは、牟岐町ホームページをご覧ください。

 

【参考サイト】

牟岐町ホームページ

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