海が吠えた日 第57回 「スルメイカ漁と津波」 七十代 男性

2011年9月13日

昔の牟岐小学校東側川筋
昔の牟岐小学校東側川筋

(U宅の川向い現在暗渠で上は道路となっている)

 (故T氏撮影)

復員の翌年二十一歳の時でした。当時スルメイカが大漁で、終戦後の食糧難のこともあり、一般の人もイカ掛けに行っていました。

 

十二月二十日夜、小舟で内妻の沖へ出て漁をしていました。十二時過ぎに内妻の浜に帰り、舟を浜に上げ、夜も遅く寒かったので、中の島の自宅には朝帰ろうと思い、現在の民宿Sの前に住んでいた姉の家で寝ていました。

 

夜明け前、強烈な地震があり、全員屋外に出たが揺れが大きく、立っていることができず、地面が割れるのではないかと思い、畑の柵にしがみつき、どうにか揺れが終わるのを待ちました。

 

寒い夜で、地震に未経験だったので、津波のことなど念頭になく、連れと服を来たまま床についた夜は静かでした。

 

私の耳に何か「ザー」という、木に吹きつける風のような気配がしたのです。はじめ外に出た時は、風が無かったのに、これは変だなあと思い、急いで外に出た。なにげなく西の春日神社の方を見た。

 

現在の内妻川を渡っている新国道の辺りが、真白にふくれ上っているのです。これは津波だと思い、大声で「津波だ逃げろ!」とみんなを起こし、取るものも取らず、子供を連れて国道の方へ避難した。

 

後で分かったのですが、「ザー」という音は、波が浜の砂利を押し上げる音だったのです。幸いにみんな助かりましたが、姉の家は跡形もなく危機一髪でした。

 

中の島の自宅も心配でしたが、道中が暗く、旧国道は遠くて道がどうなっているか分からず、夜明けまで待ち、東が白みかけたころ、中の島へ向かった。

 

八坂橋までくると、ゴミで一杯、これでは家があるのかなあと一層心配になりました。どうにか小学校の前まで来たが、H食堂の横の小橋の上に大きな船が横たわっていて通行止、しかたなく小学校の校庭に廻って、川向こうに立っている我が家を見て一安心。

 

その後、家の者とも連絡がつき帰ってみると、家の中は足の踏み場もなく、一時ぼう然としました。母の話だと津波のことは頭にあったので、荷車を仕立てて、荷物を少し積んで早目に逃げたので、潮にもあわずに無事中村の知人宅に着いたそうです。

 

地震・津波は、海岸に住む我々には切っても切れないことで、このたびの体験を聞いたことから、次のことを念頭に置くことが必要だと思います。

 

一、一刻でも早く逃げる。

 

二、地震の後は、玄関の戸を締めずに逃げるまで開けておく。

 

三、どうしても道がふさがった時には、無理をせず、二階のある家は、二階に逃げる。逃げる途中で死亡事故にあった人が多い。

 

四、避難するコースは、避難所に向かって一番広い道路を。近道でも狭い道は家屋の倒壊等を頭に置く。

 

以上が私の南海道地震にあった時の体験です。なお当時は食料難で、流れてきたサッマイモを焚火で焼いて食べていた時、玄米のおにぎりをどなたかにいただき、その嬉しさと味は、今も忘れられません。今も分からないその方に厚く御礼申し上げます。

 

◆「海が吠えた日」は、牟岐町においてまとめられた「南海道地震津波の記録」です。

詳しくは、牟岐町ホームページをご覧ください。

 

【参考サイト】

牟岐町ホームページ

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