海が吠えた日 第49回 「あの時私は!! 」七十代 男性

2011年7月19日

沖より港を望む
沖より港を望む

昭和二十一年十二月二十一日、当時私は機帆船第二益栄丸の船長として機関長、甲板員と共に本船に乗組んでいた。

 

同日は天候快晴海上平穏で絶好の航海日和であった。私は同船に木材を満載して、阪神方面に運搬する予定で木材の積出港である高知県安芸港に早朝到着するため、午前四時十分ごろ牟岐港内西船溜りを出港した。

 

機関も好調で快適な航海を始めたが、出港後間もなく船が出羽島西方を航行中、突然船底付近で「ドドンドドン」という感じの衝撃があった。

 

船橋で安心して操舵していた私は直ぐ機関を停止とし、他の二人と共に船外付近海上を調べたが船は惰力で動いており、海上も平穏を保っていた。衝撃の直後は出羽島の岩礁にでも乗り揚げたかと一瞬思ったが船の位置は岩礁のある場所では無いので、これは大地震だと確信した。三人で四方を監視していたところ牟岐の町の灯火が一瞬のうちに全部消え、続いて浅川の全灯火が消えた。

 

何かの異常を感じ直ちに船を反転し牟岐港へ引き返すことにした。牟岐港口に来た時はもう小型漁船や倉庫の屋根、ドラム缶など多量の浮遊物が流れ出していてこれ以上、船の運航は危険と思い、西の浜沖で錨を入れ停泊した。

 

その後も駅の貨物と思われる荷札付きの物など、種々雑多の品物が次々と付近を流れて行った。夜明けと共に西の浜方面を見たら旧堤防外にあった舟納屋、網納屋、加工場などは総て流失したのか跡形も無くなっていた。

 

抜錨し浮流物を避けながら西船溜りに入港繋船した。船溜りには一隻の船もなく付近を見ると中の島岸壁沿いの民家はほとんどの家は一階が流失し、二階が残った状態で大川橋の欄干に魚網が相当量ひっかかっていた。小橋脇の牟岐町警察署の屋根には機帆船の船首部が突込み押しつぶしていた。

 

私は家族や我が家が気になり急ぎ帰ることにした。満徳寺は外見無事であったが亨楽座は押しつぶされ、屋根には小舟が乗っていた。八坂橋に至る旧国道に入ると浜側にあった家屋のほとんどは全半壊の被害を受けており、国道を塞ぎ、通行が困難であった。

 

ようやく家にたどり着いたところ、玄関の土間中央に、防火用水槽として戦時中から、玄関の外に置いてあったコンクリート製丸型防火水槽が約十センチメートルの敷居を越えて、ドンと居すわっていた。潮位は床上約三十センチメートルまで来ており壁や襖に浸水跡を残していた。

 

家族は地震の直後、津波の恐れを感じて八坂橋を渡り山まで逃げたが、逃げる際に古人からの言伝えに、「津波の時には家の四方、開け放して逃げれば、潮は家の中を素通りして建物はそのまま残る」と聞いていたので、四方開け放して逃げたそうだが結果的には戸締まりをして逃げた方が、家の中が荒らされず良かったかなあと思ったりしている。

 

◆「海が吠えた日」は、牟岐町においてまとめられた「南海道地震津波の記録」です。

詳しくは、牟岐町ホームページをご覧ください。

 

【参考サイト】
牟岐町ホームページ

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