海が吠えた日 第45回 「大津波に遭遇して」 (故)男性

2011年6月21日

昔の西の浜
昔の西の浜

「ゴーウ」とものすごい地鳴りに目が覚めた。母屋は古いためガタゴトバリバリとひつこいほど揺れる。上物が落ちてぎそうなので、これは危ないぞと思ったが家から外に出られん。「みんな布団を頭から被っておれ」と指図して揺れが止むのを待った。

 そのうちに地震も止み、裏口から外に出た。子供五人のうち一番小さい三女(T)は乳呑児でこの子を抱えて飛び出す。家の裏浜側に地引用の舟小屋があったが暗闇で何にも見えないが、その音で判断すると潮が来て舟が浮きガタゴトと流れてくるようだ。

「もう助からん、皆、各自逃げろ」と命じ、裏の車庫の二階に祖父さんが寝ていたので、下から「祖父さん」と大声で呼んだ。「まあ慌てるなぁ」と言って降りてこない。「そんなことしよったら死ぬぜー」と言うとそろそろ降りて来た。

「もう子供たちは皆逃げだせー」祖父さんは母屋の大黒柱にしがみつぎ「わしゃ家と共にする。くくってくれ」と言う。「そんなこと言うとったら皆死ぬぜー」と手を引いて外に連れ出した。外は逃げる人たちでごった返している。乳呑児を抱え祖父さん、家内を連れて小走りに昌寿寺山へと避難した。そのときの模様は口や筆で表せないうろたえ振りであった。

 山に辿りつくと早速子供の安否を確めに探し始めた。眼下の大谷の田圃では「助けてくれ」と悲鳴があちらこちらで聞え、かわいそうだがどうすることもできない。潮が静かになって八坂橋の方へ探しに廻る。みんなの顔の色が無い。

そのうちに次女(T十四歳)がずぶ濡れとなりIさん宅まで逃げていた。話を聞くと、家を出て国道を西へ逃げたが、Sの家が国道に倒れてきたので、あわてて前のHさん宅へ逃げ込んだ。潮が来たので居間に上りタンスの上に乗り第一波をしのいだ。また外に出てIの家の屋根を乗り越えると、第二波が白く高く押し寄せて来た。

N宅の前で倒れていたトタン屋根にはいあがり、屋根伝いに西へ走るもだいぶ流された。八坂橋まで来て第三波に逢う。橋の上まで潮が来て引込まれそうになり、欄干にしがみついて難を免れたと言う。

 夜が明けてから我が家に帰ってみた。母屋は国道へ倒れかかっており、裏の車庫、隣のS宅がのしかかっている。倒れかかった車庫の下から声がする。「誰なァ」と言うと、次男(E七歳)である。「助けて!」「出てこい」「出られない」この子は小さい時から気の強い子で生きのびたのである。

近所の方々の手を借りて材木を取りのけ救出できた。その当時牟岐職業安定所新築のため石灰を買い車庫に積んであり、その横にうまめがしのボサが置いてあった。幸にもうまめがしという木は比重が重く、水には浮かぬ木である。

 次男の話では兄ちゃんについて逃げたが、兄ちゃんは足が早く見失ってしまい、皆が来るのを待っていたが来てくれないので家まで後戻りした。家に帰っても誰もおらず、そのうちに第一波の潮が家の中まで浸水して来た。

運よく石炭箱に手がかかり、それにしがみついていたら車庫の方へ潮と共に押流され、前記ボサと石灰の中へ流され足を取られ、人形を串でさした恰好で絶え忍んだ。


 第二波の襲来の時は顎の下までつかり、もう三センチメートルも潮が高かったら僕は死んでいただろう。顎まで潮が来たとき、目の前に小魚が飛び跳ねるのが見えたという。
 助けられて二階から乾いた服を取り出して着せ昌寿寺山へ避難させた。

長女(S)長男(Y)が見当たらないので八方探していると、二人がひょっこり帰って来た。「どこへ逃げた」と尋ねると「杉王神社まで逃げていた」と言う。お陰で家族には一人の死傷者も出さず、遅れながら逃げたが全員難を免れたことは、日ごろ信仰の加護だと深く感謝している。

◆「海が吠えた日」は、牟岐町においてまとめられた「南海道地震津波の記録」です。
 詳しくは、牟岐町ホームページをご覧ください。
 
【参考サイト】
牟岐町ホームページ

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昌寿寺山

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