海が吠えた日 第41回 「死の恐怖」 六十代 女性

2011年5月24日

思い起こせば五十年前の昭和二十一年十二月二十一日早朝のことでした。
 ゴー、というすさまじい地響きと共にガタゴト・バリバリ・と大地震となり跳び起きたものの、立ち上ることもできずはいながら揺れが止むのを待ちました。五~六分は揺れたでしょうか。

 年配の人に大地震があれば津波がくるので要注意、避難せよと聞かされていたものの、いざともなると気が動転してしまいどうすることもできません。横に祖母が寝ていたので「おばあちゃん」と声をかけたところ「暗いから早よう提灯を探して」というので、マッチ、ローソクをやっと見つけて火を付けようとしたが手が震えてなかなか付けられません。

祖父のマントを私のオーバーに仕立て直したのを急いでタンスから取り出して着用し、二階から下りてみると既に逃げたのか誰もおりませんでした。急いで外に飛び出し隣家の前までくると港の方から潮が押寄せてきて夢中で西の方へ走りました。

 舟曳場までくると、たちまち膝まで潮につかり走ることも歩くこともできなくなり、付近にのぼしてあった小舟に無我夢中にとび乗りました。暗闇の中、舟は上下左右に大きく揺れて流されて行きます。

津波は三回押寄せてきたといわれていますが、舟の上ではうろたえて、何がなんだか覚えておりません。近くの網納屋が潮に流されてバリバリ、と大きな音をたてて頭から崩れかかってくるようで、怖くて今にも押しつぶれされて死にそうに思いました。

濡れた足が冷たく凍るのを我慢しながら必死にただ舟底にしがみつき、無事どこかへ流れ着くことを神仏に祈りつつ震えておりました。

 家族はどうなっただろうか、とはつゆ考える力もなく呆然と時の経つのを待つのみでした。
 対岸の山では、あちらこちらで火が灯り「助けてくれ」と悲鳴が聞こえてきますがどうすることもできません。

 夜も白々と明けてきて付近の様子が見えてきました、ああ助かったのだ。ふと気がつくと隣家のAさんも同じ舟に乗り合わせていました。大きな屋根の上で舟は止まっています、つぶれた享楽座の屋根でした。

二人は舟から飛びおり満徳寺を目指して、一目散に走りました、途中大敷網の事務所の前の道路で焚火をして、おりそこで暖を取らせていただき、ようやく気持ちが落ち着き、初めて家族のことが心配になり避難している昌寿寺山へ駆けて行きました。

山に登って行くと大勢の人たちが避難しており、それぞれの家族が家の安否を気づかって騒いでいました。私もやっと家族と再会でき嬉しくてホットしたのも束の間、祖母がいないと聞かされました。

あの時、一諸に二階から下りてきたのですがそれから先はどうなったか不明です。とても元気なすばしこい人でしたので逃げ遅れたとは思いません。しかし今はどこにも見当たらないアーアー、と落胆していると沖から父が帰り迎えにきてくれました。漁に出ていた父、弟、叔父は無事で何よりでした。

しばらくして母の実家(T)宅へ連れて行かれお世話になる身となり、おばあさんを捜すことになりました。四日目にして西浦のMさんが出羽下で発見してくださり、東の妙見さんにて遺体を引き取りねんごろに葬ることができました。

今考えますと祖母は一度は逃げたと思いますが引ぎ潮に位牌か、何にかを取りに引き返えして波にのまれたのではないでしょうか。私もあの時舟に乗らなかったらどうなっただろうと思うと身の毛がよだつ感が致します。

その後親戚の方々が屋敷内に応急住宅を建ててくださり落ちつぎ一応生活の見通しがたちました。津波の体験記をつづっているとあの怖かった想い出が再び脳裏に蘇り、将来必らず起こる地震や津波に備え日ごろからまず地震が起きたら津波がくることを考え何よりも早く高台に避難する。

潮が引いても絶対後戻りしないなど私の身を持って体験したことや、あの時亡くなられた多くの方々のご冥福を祈りながら後世に伝えておきたいと思います。

◆「海が吠えた日」は、牟岐町においてまとめられた「南海道地震津波の記録」です。
 詳しくは、牟岐町ホームページをご覧ください。

 

【参考サイト】
牟岐町ホームページ

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昌寿寺山

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