海が吠えた日 第26回 「―潮―」  六十代 男性

2011年2月8日

八幡神社鳥居から拝殿をのぞむ
八幡神社鳥居から拝殿をのぞむ

昭和二十一年十二月二十日叔父の婚礼も無事に終わり、帰宅する親類の引出物に魚を買いに町へ行こうとしたら、祖父が「すまんが提灯を牟岐小学校前のS傘店に頼んであるので、ついでにもらって来てくれへんか」と言うので二つ返事で出かけた。この提灯が後でどんなに役立ったことか。

 魚を頼んである東の西町のK家へ行った。おばが提灯を見て「新しい提灯やなえ、ローソクを入れといた方がええぜ、縁起のもんや」この頃は物が不足でローソクは貴重な物であった。

 K家には八十歳に近いEじいさんがいて、魚を待つ間「安政の地震」について話を始めた。話がはずみ夜の更けるのも忘れて皆が聞いた。とうとうその夜はてんぐり漁が遅かったので泊めてもらった。

 床に入ると深い眠りについた。どの位眠っただろうか、唐紙がガタガタ梁がギッチギッチ夢うつつ、隣に寝ていたEじいさんが「地震じゃ、早よう起きい!」と家の者を起こす大きな声がしたので皆飛び起きた。立っていられない。

凄い揺れが数分続いてやっと収まった。電灯が消えて真っ暗がり「そうだ提灯がある」ローソクに火をつけた。この明かりで無事を確かめる。「凄い地震やったね」声が震えている。雨戸を開けようとしたが開かない。やっとのことで外に出る。

隣のOさんも出て来て「大きな地震やったなえ、家の壁が落ちてしもたんじょ」「だあ、うちのも……」こんな会話を交わしながら家の中に入った。両家の人々はその時津波のことをすっかり忘れていた。

自分も家に入ろうとしたが、何だか気になったので八幡神社の方へ行こうとした時、浜の方から「潮が狂ったぞー」とけたたましい声がしてきた。直ぐに引き返し皆に告げる。その時の慌てようは大変なものだった。

自分の持ち出しは布団、腋に抱え八幡神社の石段迄来た時ドッドー、ドッドーと凄じい潮の唸り「潮に呑まれる」必死で石段を上がりつめた。下を見るゆとりもない。神社の山を登ってKさんの家の裏に辿り着いた時、Fの菓子屋の下辺りから「助けて!助けて!」とふりしぼる声がガラガラドッーと潮に呑まれたのか消えていった。

人間の力ではどうすることもできない。
 波に乗った船らしい影が、大川橋の上を物凄い速さで上流へと押し流されて行ったのが見えた。あれは確か小学五年生の国語の授業の時だ。『潮のおし寄せて来るがごとき大軍』「この意味はなあ、津波がおし寄せる様子をたとえて言った言葉じゃ」と先生が解説されていたのを思い出した。この目で見た津波の怖さで体の震えが止まらない。

 神社に駆け上る途中大勢の人が境内や裏山に避難していた。神社で打ち鳴らす太鼓の音が夜明けの空にひときわ高く、また低く響ぎ渡っていった。助かったんや、K家の人々は皆無事だったのだろうか?その時私を捜す叔父の声が聞こえて来た。

急いで下りと行くと「捜していたんじゃ、おったんか、無事でよかったなあ」皆して手を取り合って喜んだ。すっかり夜も明けた。炊き出しの握り飯を手にした時は感謝で胸がつまりそうだった。K家の人々は皆無事、Eじいさんは避難の途中網が流れて来て足に絡み、神社前の井戸枠にすがり助かったそうだ。

 家が心配になった。東の町を後に天神前を通って川長の山伝いにシンコ渕まで来た。(現在の中学校の上の畑から山伝い)鮮魚船が田圃に流されて来てその辺りには魚がいっぱい浮いていた。

 川又の河内小学校前迄来て、皆に「津波で町の家が流されたり、壊れたりで大変だった」と話したが、半信半疑で信じてもらえない。家に着いた。石垣が崩れていたが家はどうもなかった。

 客に来ていたK村の叔母が浅川に泊っているとのことで、安否を気遣い訪ねて行ったが無事だった。A村の国道は寸断され、田圃には大小の船や家屋の流失物でいっぱい、傷跡があまりにも大ぎいのでびっくりした。

 牟岐に帰って直ぐ青年団の奉仕に参加、同倫のM氏のメンバーに加わり行方不明の人を捜したり、牟岐小学校の校舎の一部を取り片付けたり数日続いた。小学校で学んだ『稲むらの火』を思い出し、海辺の町では『地震と津波は一つ』であることを再確認した。
(東のN宅(現S宅)は床上浸水約一メートル位だった)

地図

八幡神社

お問い合わせ

防災人材育成センター
啓発担当
電話:088-683-2100
ファクシミリ:088-683-2002