震潮記(第3回)-震潮円頓寺旧記之写:慶長九年十二月十六日(1605.2.3)

2008年8月8日

慶長(けいちょう)九年十二月十六日震潮円頓(えんど)寺旧記の写し(その二)

 

第二度目書き記す午後二時、宥真と共に町筋で書く

 

   第一山野に堪えしのぐうち、ほうろく(素焼きの平たい土鍋)で食物など煮焼きして命をつないだ。一代一生のうちに、菰(こも)をかぶって過ごしたことは、立派な着物を着ることよりも大切なことのようだと、誰もが言い合ったことである。しかし、その古い菰までも流してしまったことであるから、これ以上のことはない。

 

   一、当寺の檀中(だんちゅう=檀家のうち)で流死人数は、老若四十三人、大日寺檀中二十三人、真福寺檀中九人、長福寺檀中六十一人、里分寺方の檀中も入り込んで死んだ。

 

   自他ともに総人数は、千五百余人という哀れなことを見聞きしたのである。翌十七日午後二時過ぎに見たところ、城山より西北の方は、一面の人の死骸(がい)で目も当てられず、東より北、往還道筋へかけても同じようであった。
  そこで、久保村のうちの二ヶ所へ総塚(亡くなった人を一ヶ所に埋めて土を高く盛った墓)にして死体を埋め、その後、地蔵石仏を建てた。これは、祇園西手の山際である。

       

                  慶長九年十二月十七日
            午後二時これを記す
                 円頓寺     宥慶

 


追って書き記す
第三、十九日午前十時寺内にて見聞きしたこと

 

一、総代寺中の諸道具は、何によらず混乱して入り込み、地中に埋まっている所は、一尺から一尺五寸(約三十~四十五センチ)、所により二尺から三尺(約六十~九十センチ)も砂に埋まり、総代や一般の家の諸道具も入り混じりになって埋まっているのを、皆追々見つけ出し、印(しるし)ある分は持ち主が取り、印のないのは皆々人の物を我が物とした。当寺でも什器(じゅうき=日常使用の家具道具)類、椀など皆壊れてしまって、寺中の墓所などに引っ掛かっていた。

 

   真福寺は長福寺の後ろに大藪を引き回していたので、同真福寺の畑のうちに流れ込んでおり、傷みも少なく、寺(真福寺)はねじれ転び倒れかかっていた。諸道具なども寺について流れてしまったかも知れない。茶漬椀(わん)類が残っていたのでこれを取り集めた。

 

 (田井晴代訳「震潮記」)

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