震潮記(第6回)-震潮之旧記写:宝永四年十月四日(1707.10.28

2008年8月29日

宝永(ほうえい)四年十月四日震潮の旧記写し

 

宝永四年十月四日(一七〇七年十月二十八日)、天気殊に晴れやかに四方に雲もなく微風もなかった。午前十一時大地震にて、弱い家や土蔵は崩れ、強い家や土蔵とも壁は落ち、鴨居(かもい)は離れ、人々は慌てふためき、愛宕(あたご)山へ逃げのぼったところ、地は裂け、水はわき出て、川水は井戸水など増えて、しばらくして川や井戸の水が残らず引いて乾き、海底も潮が引いて、はるか向こうまで干潟となった。

 

  やがて、大潮が午後二時ごろに矢を射るような速さで押し寄せ、宍喰浦中の家や土蔵は流失した。溺死人は男女十一人、浦中の漁具は残らず流失した。

  

  土佐屋五兵衛という者の船十反帆(約百八十五石積)が願行寺の南の畑に流れ上がった。もっとも寺院は残ったけれども、大変傷んで座上二尺(約六十センチ)余りも潮が上がった。
久保村も多くの家が流失したが、人々は祇園山へ逃げのぼって命は助かった。大潮が入ること二丈から三丈(約六~九メートル)、所によっては四、五丈(約十二~十五メートル)も上った。この辺は内が広い所のためか、鞆(とも)、奥浦は人家もつつがなく、浅川(海南)、牟岐(むぎ)浦は家一軒も残らず流失し、両浦の死者は三百余人であった。宍喰浦でも家が多く流失し、溺死者は十一人ばかりであった。

 

  四国、西国、紀路(和歌山)も大潮が入り、北国、東国は震潮はなかったと聞いた。地震が揺ると津波が来るものと思って、老人、小児は早く山へ逃げることである。山が遠い所は、命のほかに宝はないものと思って、何もかもほったらかしにして、山へ逃げのぼるよう、そのような時は、様々な怪しい取り沙汰があるものであるが、迷ってはならない。

 

  天地がひっくり返るような恐ろしいことの知らせもあることである。津波が入る時分一度山へ逃げ、また、大事なものがあるなどといって取りに戻り、このため死んだ人も多かった。

 

  命のほかに宝はないのだから、早く山へ逃げることが肝要である。地震は昔もあって、津波が来て多くの人が死んだとある。
  宍喰浦寺院の旧記を見ると、左の通りに書かれている。後の世の人々のためになるかと書き写しておくものである。

 

  七、八年、十ヵ年の間は折々少しずつ揺るものである。
  牟岐、浅川は山も近かったけれども、油断あるいは欲に、何やかやと持ち逃げることを止めるようにしないと、万貫(まんがん)の金にも換え難い命(どれほどのお金よりも重い人の命)を落とすことは、はかないことである。百年ほど経(た)てば大変なことがあるものであろうぞ。

 

  永正九年(一五一二)まで九十四年、慶長九年(一六〇五)より宝永四年(一七〇七)まで百四年になり、永正以前にも度々地震、大潮もあったが、何年に大潮、地震があると確かに記す人がなかったため、書き記す術(すべ)もない。いま、書き記すところは、将来確かな跡書(あとがき)であるから、後々の人の心得になると思って著(あらわ)しておくものである。

 

  初めに宍喰浦のことだけを書いたが、宍喰ばかりにこのような変事があるものではない。記しておくと、おかないとは違うということを知るべきである。
  宝永四年(一七〇七)十月四日は震潮の前、日和は日照り続きで十月最初には大変暖かく、人々はひとえものを着用したほどで、その日は風もなく、晴天で雲もない静かな日のことであった。
  浦々の溺死するもの数えられないくらいで、寺院は座の所まで波に浸ったという。この時は、大地震の後に、しばらくして大波が入って来た。

 

   その昔の大変は、慶長九年(一六〇五)十二月十六日午後八時津波が来て、浦はもちろん正田(しょうだ)村まで一家も残らず、人が死ぬことおびただしいことであった。宝永の潮は昼であった。また、前ほどでもなかった。
  慶長の大変こそ言うも愚かや、波の入る前ごろ、所々の井戸水が自然と干上がり、港口より水床(みとこ)の沖まで乾き、水は一滴もない干潟となったという。

 

  今、願行寺の六地蔵の下に、古い石がある。その時のあら書きをしたというものだが、石の上下が欠け、壊れてしまって、文章の内容が分からない。
  慶長十年(一六〇五)正月に記すと、年号は明らかである。その文章の中に、半時(一時間)揺りと書いてある。その上の文は欠けている。それなれば、その時も地震があったのであろうか。

 

   いま、古老の言い残したことを伝える者の言うには、その津波は十六夜(いざよい)の出る月を隠して、山より高く入って来た。浜辺に竹藪(やぶ)のあった所にて、波がひときり打ちつけた様子、その勢は少しは弱くなり、人々は右往左往して迷う者、ことごとくみんな海底の藻屑(もくず)となる。
  小山に逃げのぼった百余人は、命が助かった。いまの愛宕山である。その山の八分目まで波が上がり、波が来ると、人々は同音に泣き悲しむ声ばかりで、生きた心地もなかったであろうぞ。

 

  ああ、まことにこれが人の世の定めというものであろうか。同じ波に思いがけなくも溺死する人々の心、返すがえすも痛ましい。だから命こそ物種よ。
  その時逃げ切ることが出来た者は、子や孫にも言い聞かせて、慶長九年(一六〇五)より、いま元文二年(一七三七)まで百三十年に及んでも語り伝えるものである。
 不定(ふじょう=不確か)な世界にも何も定まったことはないと言うけれども、とりわけ海辺の住居は、特に言えることではないだろうか。

 

 

(田井晴代訳「震潮記」)

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