海が吠えた日 第42回 「南海地震の思い出」 七十代 女性

2011年5月31日

牟岐小学校前の最高潮位標設置作業
牟岐小学校前の最高潮位標設置作業

それは四十六年前の私が二十一歳の冬の出来事でした。この文面を書き始めてから、かれこれ十四年にもなりました。恥かしいですが、私はいたって牟岐弁が好きです。このごろは、あまり牟岐弁を使う人が少くなり淋しく思う一人です。粗雑な文面ですが思い出として綴ってみました。

 昭和二十一年十二月二十一日の未明のことでした。確か四時十八分ぐらいだったろうと思います。いくら寝坊助だった私でも、ガタガタドーンドーンという異様な物音、「アリャー地震やおっきょい、こりゃーごっつい」と祖父母。

祖父母の隠居家へ泊りに行っていた私は、昔の家の事とて、天井等はソーギ茸のままである。ガタガタ揺れるにたびに、目や顔に塵やすすが降りそそぐ。立つに立てず震動が止まるのを待ってあわてて外に出た。

外はまだ真暗、家の前は墓地(旧西部保育所)付近に井戸があり、まずその井戸の水を見た。「井戸の水が引いていたら津波が来る」と昔の人が言ったと祖父が教えてくれていた。

 町の方が何やらそうぞうしい、家へ帰ってみようと思い山口の橋(西念寺の裏側の橋)を渡りかけたら、YのOじいさんたちは、布団をかぶって逃げかけている。川添の人たちは、もうOさん宅へ逃げて行く。

町へ来てみると、HのYじいさんは神棚にお燈明を上げ、柏手を打って、「悪事災難のがわりますように」と大きな声で祈っている。

 町の様子が何やら異様な気配、家へ走り込んで見ると、皆ボーとしてヤグラコタッに座っている。「早よう逃げなんだら。皆よその人ら逃げよんのに何しょん」と私の言葉にびっくりして急に目が覚めたように布団・米・重要な物等を荷造りしだす。

 浜の方から大きな声で、確かT君が、「津波やー、津波やー」と皆に知らせてくれた。「ホーレ早よう早よう」妹が十二歳、私はしっかり手を引いて先刻来たYの前を祖父の家へ逃げようと走ってみたが、もう辺り一面川とも、海ともまるで湖のごとくであった。

冬の夜明けの五時ごろといえばまだ暗い。それでもまだ渡れるたまり水ぐらいに思って一足入れた途端びっくり、アサブラ(草履のこと)も、靴下も引きむしられた。ものすごい潮の勢い、若かったからこそすぐ引き返せたものと、今にしてつくづく思いました。

 引き返してHさん(今の天狗)の所まで来て家族一同別れないように、目標は八坂峠と決めて走った、走った。もうその時は、八坂橋の下はすごい音を立てて昌寿寺の方へと津波が瀬戸川を逆流しているよう。私たちも必死の思いで八坂のFさん宅の前まで逃げたのです。

もう早二十人ぐらいの人が逃げて来ていました。それからものの二十分もしたころ、Iのじっちゃん(私の親友で昭和五十八年死亡)は、全身びちゃびちゃになって震えながら、ようやくといったかっこうで逃げて来た。

私の顔を見るなり、抱き着いて来て泣き出した。私は何が何やら分からず、自分の着ていた綿入れの伴天羽織を着せてやりましたが、下はびちゃびちゃに濡れていたのにと後になって気がついた。

じっちゃんの言うには、西念寺前では、もう方角が全く分からないぐらい家が倒れたり、流されて来た障子や柱の間に足を突っ込んで動けなかったと泣きながら話しました。お父さん(W、Kさんの父)の安否を心配していましたが(こちらへ逃げてくる途中、亀兵の裏口辺りで亡くなっていました)。

その時「もう浜の方で残っとんのはMの母屋だけや、もう何じゃ無いわー野になってしもた」と言う声、漁師の人は大きなことばかり言うからと半信半疑でしたが、もしや自分の家もと不安が募るばかりでした。

 東の空が明け始めると、ボトボトと皆、我が家をさして帰り始めました。幸い私の近所は異常なく本当によかったと安緒の思い、でも浜筋の二階建ての家は、下がびしゃんこになり、二階がそのまま落ちて、一階建になったようで、そんな家が数軒ありました。西浦で道路が濡れていなかったのは法覚寺の辺りだけだったように思います。

 そのうちにいろいろと被害の状況が聞えてくる。まだまだ余震は止まらない。潮位も狂っている様子。昌寿寺山には、多数の人々が避難して三日も四日も寒い時期、山頂暮しをしていたようでした。

 当時私は、役場戸籍係の臨時書記として勤めていたので役場へ行きかけたが、小学校前まで行ったら、今の阿波銀行辺りは、潮が満ったり引いたり、港から津波で流れ込んだ船で一杯、小学校前から見ると、昔の警察(今は消防屯所)とH食堂横の川にかかっていた小橋が落ちてしまって、道路はえぐられ、隆生丸(貨物船)と活魚運搬船(義武丸)が入り込んで道を遮断していた。その後しばらくはその船の下が通路でした。

 思えば、地震の前日の夕方、西へ帰る吏員さん(W収入役(故人)。M会計(故人)。Hさん(故人)・Y助役・Sさん)と私は、小橋の上にさしかかった時に見た西の空のものすごい美しい夕焼、こんな美しい夕焼見たことないな。と皆んなで一瞬たたずんだことを、今もはっぎりおぼえています。その宵の小橋と一変し、今のこの橋の変わりよう、本当に明日という日は分からないなあとつくづく思いました。

その夕焼を役場の裏で開業医院をしていたI先生(故人)も、あまりの美しさに写真にとって置いたのを、まさか津波が来るとは思わず、写真機もフイルムもびちゃびちゃになりくやしがっていたことが思い出されます。その当時、小椋雲とかいって地震を予知する雲だったとか、報じられていたこともぼんやり覚えています。

 さあ、それからが大変、役場へ行くと事務机も何もごちゃごちゃ、床は落ちて惨状目に余るとはこのことかいなと思いました。戸籍簿の確認、幸い散乱はしていたが水びたし。被災者や死亡届・戸籍謄本・抄本・証明書等、一枚一枚、一件一件複写で日がな一日書き続け、よく務めたものでした。

 警察は、戸籍簿を流し、Sという若い巡査が戸籍簿を借してくれといってきたが、持出禁止のため数日公会堂の二階で住所氏名を写していました。

 役場は、床が落ち仕事が出来ないため、公会堂の二階が会議室、下が役場として狭い不便な庁舎でした。災害復興部もでき、被災者に救援物資の配給だ慰問だと、毎日が戦争のようでした。あの時を振返ってみると、夜明け前の時間帯やからよかったものの、もう少し遅かったら朝の炊事で、大火災は免れなかったろうと思いました。

◆「海が吠えた日」は、牟岐町においてまとめられた「南海道地震津波の記録」です。
 詳しくは、牟岐町ホームページをご覧ください。

 

【参考サイト】
牟岐町ホームページ

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