海が吠えた日 第32回 「隣家の子供を託されて」 六十代 男性

2011年3月22日

I宅の家
I宅の家

当時私は現在の磯釣組合の北隣にあったK組合に勤務していた。前日からの勤務も当日の午前四時ごろ最後の抜氷作業を終え、控室で仮眠に入りウトウトしていた。

四時二十分ごろ突然海の方からゴウーと言う音と同時に、製氷の建物がギシギシと激しく揺れ出し電灯も消えた。地震だ!宿直員三人が同時に南側出口まで逃げたが激しい揺れで立っていれない。建物の柱につかまって揺れの止むのを待つ。

一分か二分か随分長いように思えたが分からない。やっと振動が止んだので屋内へ入ったが、今度はシュシューと不気味な音と共に異臭で息ができない。今の地震で配管の接手がゆるみアンモニアガスが噴き出している。早速ローソクの灯でボルトを締めにかかる。

作業をしながら私はどうも外の様子が気になって仕方がない。普段の波音と違う何か異様な気配に玄関まで出て海の方を見てあっと驚いた。今しも一隻の漁舟が電灯をつけて既に前の岸壁よりも高い波に乗って矢のような速さで入って来るのが見える。

気がつくともう足元までザブザブと波が洗っている。津波の第一波が早くも来たのだ。「津波が来たぞ、逃げろ」と同僚に知らして三人で玄関から出ようとしたが、もう既に波がザアザア打込んでいる。

 前方を見ると、砕氷塔の下では大敷網の引き船が電灯をいくつもつけて、ゴウゴウーと押し込んで来る津波に逆らって全速力で沖へ脱出しようとしているが、前へ進まないのが見える。茶褐色の濁流が砕氷塔に波しぶきを上げている。そのうち足元の潮も次第に深くなって来たので、三人で裏の浜の方へ廻る。幸い浜はまだ潮が来ていない。

その時隣家の避難して来る五、六人の家族と一緒になる。その中のA子さんが「誰かこの子を連れていって」と四、五歳の男の子を抱いて叫んでいる。甥である。「ようしゃ、わしが連れていったる」と私がその子供を預ったのが苦難の始まりである。

隣家の人たちは子供の両親もいたのに、子供を私に渡すと同僚等と共に急いで逃げて行き、私と子供だけが残された。子供は抱くと重いしワーワー泣く。その上浜の道は不案内であるし、暗い。波音が追って来る。

必死になって逃げるうち、私はいつの間にか内港近くの海産物商の炒り納屋の中に迷い込んでいた。どちらを向いても墨を流したように一寸先も見えない真暗闇である。しまったと思ったがもうおそい。かなり広い建物の中を、出口を探して手さぐりで二度三度探しても探しても出口が分からない。

何分、何十分経ったか、その間絶え間なしに浜の方から高い波音と共に、ガラガラバリバリと家屋や網納屋の壊れる音や、港の船が岸壁に当たって砕ける響が入り混って、物凄い音が耳に入る。足元の潮ももう膝上まで来た。抱いている子供も今はもう夢中で私にしがみついている。

思えば一年五か月前徳島空襲の時も徳島にいてザーザー音をたてて、落下して来る焼夷弾の中を逃げた時も、これほどの恐怖心はなかったのに今度はどうもいけない。とじ込められて逃げ場がない。

「ここでやられるかも分からんな」と思うと一人で家にいる母親の顔がチラッと脳裏をかすめる。……とその時である。ギギギギという音と共に前の方がかすかに明るくなったような気がした。

近づいてみるとあれほど探しても分からなかった出口の戸が少し開いている。どうしたのだこれは?だんだん深くなって来る潮が動いて戸を開けてくれたのである。助かった。
 外へ出るともう腰の上まで潮が来ている。

それからはもう無我夢中でどこをどう通ったか覚えていないが、気がついた時は昌寿寺の上の山まで来ていた。山の上では多くの人々が避難して来ている。あちらこちらで焚火にあたりながら恐怖の模様を話し合っている。中にはパンツ一つになって濡れた衣類を乾かしている人も何人かいる。私もその一人だ。

東の方を見ると真暗な中に自宅の上の方の山に点々と焚火が人魂のように不気味に見える。
 冬至ごろの夜明はおそい。ようやく東の空が白み始め、人々の顔が分かるようになってからさあ子供の親探しだ。子供は寒い寒いと泣く。自分の上着を着せているが正月前の朝は寒い。附近にいる何十人もの人の顔を見たり尋ねたりするが、この場所には子供の親たちはいない。

それからあちらこちらと探してようやく杉王神社の本殿の裏にいる親を探し出し、子供を渡しほっとする。子供を預かって四時間余よく水中に子供を落さなかったものだ。時計を見るともう八時半を過ぎている。

神社の裏山から自宅の方を見ると家の屋根が見える。流されずにあるようだ。一安心して帰宅しようとするが、どの道も家の破片や家具類、ゴミでいっぱいである。大川橋の真中にはどこかの家の大屋根が乗っている。それを乗り越えて橋を渡ると、橋の元では母親が狂気のようになっている。それもそうだ。

 同僚の近所のNさんは夜明前に帰宅しているのに、若い私が九時になっても帰らないので、津波に流されたものと思ったのも無理はない。私の顔を見ると「家はもう住めんがお前が生きとっただけで上等や」と泣いて喜ぶ。家の中へ入ると床上一メートル余の浸水で足のふみ場もない。その日は一日中潮が狂って大川の潮も満ち引きを繰り返している。港内も外海もいろいろな浮遊物で海面が見えない。

 出羽島沖では時々ドーンドーンと何とも分からん大きな音がして、恐ろしくて裏山から下りられない。一日中沖の方を見て過す満二十歳の年の暮れであった。

 なおこの時の津波の現象としては、はっきり見ていないので定かでないが、沖から高い波が折れこんで来たのでなく、海全体がふくらんでくるような感じで押し寄せて来たため、海岸や川口、港の入口等行ぎ止まりの所や、水路の狭い所で急に波高が何倍にも高くなったようである。

押し込んで来る潮の力も相当なもので、私の近所の家では大川に面した推定二トン余りのコンクリートの塀が根元から折れて、三十メートル余り離れた川底まで流されていたのを覚えている。地震の前兆のような特に変わったことは記憶にないが、地震の数か月前からスルメイカの大漁が続き戦後の食糧難に一役買った。

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