海が吠えた日 第31回 「屋根の上に乗って」 七十代 女性

2011年3月15日

昔の牟岐川
昔の牟岐川

 グラッときた。これは大きい。もう止むか止むかと思っても、次第に大きくなるばかり、二階の窓を開けて、テスリにしがみついた。振り離されないかと思うほど強かった。
 揺れが止んだので急いで庭に降りた。

今まで暗かった周りが一瞬明るくなった。地面がはっきり見え、庭の植樹が浮んで見えた。不思議な現象が不気味に感じた時、「揺れ戻しが来るけん気をつけ」と母の声がした。「津波が来るから気をつけ」とは言わなかった。

 どれほど経ったか、道の方で人の声が聞え出した。その時足元が潮につかったと思った時、「津波や!」とKさんがどなった。私は、「早よう位牌を持って!」と母にいい、食塩が潮につからないように始末している間に、家族は離れの二階に上がっていた。

遅れて二階に上がったとたん、ザア、ザアという音に雨かと一瞬思い、戸締りをしようとしたとたん、ドスンという音と共に体に大きな衝撃を感じた。漁船が一階に突っこんで来たのだ。母屋と離れの二階を結んでいる台所のベランダに飛び移るなり、一階はもぎ取られるように船と共にどこかに流失してしまった。

一階をなくした離れの二階の屋根がベランダと同じ高さになり、早く屋根に上がれといわんばかりに、二階の屋根が腰の高さに位置している。同居していたI夫婦と生後六か月のY、母と私の五人は、急いで屋根にはい上がった。

 真暗闇、どれほど経っただろうか。そう遠くない距離に漁火のようなものが点々と動いている。自分の家からは、そんなものは見えたことがなかったのに、それが道行く人のちょうちんの明りであることに気がついた時、今自分のいる位置が以前と全然違っているのに気がついた。家から直線距離にして約百五十メートル離れた、今の県立海部病院付近に来ていた。当時は水田で周囲よりやや低くなった中に浮いていた。

Kさんが筏のようなものを組んで助けに来てくれた。
 津波の去った牟岐川を見て、五人共助かった実感が湧いてきた。長い旅をした跡の疲れのようなものを一ぺんに感じた。

母屋の二階だけがポツンと残って、離れとそれをつなぐ台所と納屋の地盤石だけが残っていた。母屋の一階には、近く阪神方面に積み出される予定の薪と船がもぐり込み、中味が入れ替っていた。私たちの乗っていた家の天井には、畳の上に置いてあった火鉢と、お琴がひっつくように押し上げられ、唯一の財産となった。

母屋の二階に残っていたおじいさんとおばあさんは、離れの二階があったおかげで助かった。おじいさんはなくなっている離れの二階にびっくり、流されて死んだと思い、「Tよ!、Tよ!」と何回も呼んだそうだ。

母に持たせてあったはずの先祖の位牌が、離れの地盤の水溜りに浮んでいた。乗れといわんばかりに屋根が目の前にあったこと、位牌が我が家から離れなかったことを思うと、先祖のおかげで助かったんやなあと思い、先祖は大切にしなければいけないと、つくづく感じさせられた。

 当時は、私の家の周りに家はなく、堤防のない牟岐川のほとりにあって、川口から離れていたにも関わらず、被害が大きかったのは、当時の津波に無防備であった。もし今の状態で同じ程度の津波が来たとしても、家は浸水の程度で済んだだろう。貴重な命拾いした経験が、当時二十一歳であった私の人生に教訓として大きく生きている。

地図

旧県立海部病院

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