海が吠えた日 第16回「出航の朝 -津波が」 七十代 男性

2010年3月23日

 昭和二十一年ごろ私の家は家族十二人の大世帯だった。私たち夫婦、父夫婦、祖母、妹たち七人で、その宵に妻の母も新野町からきて泊っており計十三人だった。二十一日朝れんこ船が出航する予定だったので、出初めの祝いに赤飯を炊く準備のため女ご衆はみんな早起きしていた。

 大きな地震が揺れ出したが妹のTはすぐに「こりゃ逃げんといかん」と言って、妹たちを全員連れて地震の最中に観音寺川の向かいの高台にある親類のH宅へ避難した。

 私は腹の調子が悪かったのでそのまま二階で寝ていたが、しばらくすると浜へ潮を見にいっていた父(D)が「津波がきよるぞー」ととえて帰ってきた。急いで提灯に灯をつけて外に出てみたらすでに太股まで波がきていた。前の路地から北へと向かったが日の出橋はもう波が越してきており渡れない。仕方なくSさん宅の前から西の農協の方へ、東七間町のO商店の横を曲って西へ走った、海蔵寺の石段の下にはもう波がきとった。ようやく海蔵寺の上まであがることができた。新野の義母は途中ではぐれてしまって心配していたが、前のあわえのAさん宅の二階へあがり助かった。祖母は川向かいの納屋で寝ていたがいち早く裏の正伝寺墓地へかけ上り助かった。納屋は観音寺川左岸川口沿いにあったので、二階の上まで波がきていた。大家族であったが、Tの機転と素早い避難行動で一人の怪我人もなく無事で嬉しかった。

 しかし家は浜の方から流れてきた家や漁船松根などにより、裏のあわえの家と共に両隣のIさん宅、Yさん宅と一緒に壊れてしまった。東会堂で二晩、H宅で二~三日、農協前の親類「K」で家ができるまで一年半生活した。

地図

海蔵寺

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