海が吠えた日 第14回「南海道大地震に伴う津波を思う」 七十代 男性

2010年3月9日

昔の東漁協事務所下の浜(現在東漁協虹の城)

 五十年前の昭和二十一年末、未明突発した南海道大地震当時、両親は山の家におり留守であった。
 九死に一生を得て戦地より復員してきた私と家内は、幼い長女と三人で裏の離れの二階で寝ていた。午前四時二十分ごろだったと言われるが、突然家が左右に強く揺れ出して電灯が消えた。未だかつて経験したことのない大地震の恐怖にさらされた。今にも家が倒壊するかと思われる程で、その間互に言葉を交す余裕は全くなく、随分長時間に感じられた。
 幼時、第一室戸台風時においても、早朝家の戸を開けると、直ぐ目の前の町を海水が奔流となって流れているのを見てたまげたものである。そのような海辺近くで生まれ育った私は、大地震のあとには津波の危険性があることを、誰からともなく身につけていた。毎日通った小学校の東前隅には、安政年間の地震と津波の記念碑があり、頭に焼きついていた。
 私は地震動が収るや直ちに着衣、妻には長女を背負って直ぐ逃げられるよう指示した。階下におりて母屋に行くと、弟二人が蒲団の上で果然自失、無言のまま座っていた。「津波がくる。位牌だけ風呂敷に包んで直ぐ逃げる準備をしておくよう」大声で告げて、五十メートルぐらい先の岸壁に来て海水位の変化を見た。当時空は少し曇って風もほとんどなく、海水位に変化はなかったが、港の防波堤と沖の空と海は何とも知れぬ無気味さが感じられた。発光現象や海鳴りのようなものは感じなかった。そこにいたのは一分か二分だっただろうか。こんなことはしておれぬと直ちに家にとって返し、
 家族と共に避難すべく急いだ。金も米も持って来ていないと家内は言うが、そのまま無欲で低い道路を通るのは避けて海蔵寺に向かった。途中地震で倒壊した家は見当たらなかった。海蔵寺には早く避難した近くの人々が見られたので、家族を金比羅さんまで案内した。絶対ここを移動せぬよう指示し、私は再び海蔵寺を降りた。家族たちは、津波を知った山の両親が探して来て世話をしてくれることを信じ、その後一日家族と顔を合していない。
 その時避難して来た人々は、すべて津波で衣服を濡らしていたようである。私は復員時に腕時計を没収されて、当時も時計を持っていなかったので、家を出て何十分ぐらいたっていたのか分からなかった。
 津波は引いているようだった。そこでまた津波の危険はあるが、自分たちの家と町筋がどんな状態になっているか確認すべく帰った。私たちは余りにも逃げ足が速かったので、津波来襲の状況は全く承知していない。
 私たちの町筋に来て見ると、ほとんどの家は地震津波による倒壊はなかった。しかし私の家は運悪く、町を流されて来た漁船が母屋の中に突っ込んでおり、家は傾むき壁は落ち惨擔たるもの。裏の離れに行ってみると、階下は津波で流されて来たゴミで一杯。しかし、一応壁は落ちていても建物はちゃんと立っている。階段を見ると、最上の階段まで海水が上がっている。ここまで波が来たことは確かである。
 直ちに我が家を飛び出して、我が家より東のより低い集落を見て廻る。一軒の家は全く倒壊していないのに、恐怖からか二階で「助けてくれ」と叫んでいるが、たいしたことはなかろう。その次を見ると、この家だけその浜側に家屋が無かったためと平家だったためか、屋根がそのままつぶれて落下している。母親がその下敷になっているらしく助けを求めており、息子さんが屋根に穴をあけて手だけ握り合っているようである。私のほかには誰もおらず、二人だけではいかんともし難い。
 一応その東から観音寺川までの家々を見て廻ることにした。無人の家は避難しているのであろう。他のあちこちの家々には津波で溺死したであろう遺体が十数体眼につく。一番悲惨だったのは、母子五人の遺体が一ヵ所に散乱していた。溺死者は階下で、しかも玄関の土間で倒れている。家は倒壊していない。逃げおくれて津波の犠牲になったのであろう。
 さて屋根に押ししあがれてまだ生きている被害者の救済が問題である。私は直ちに海蔵寺にとって返した。長い階段の下で多くの人たちが焚火を囲んでたむろしている。そこで現地の惨状を報告して、共に救助に行ってくれるよう呼びかけたが、いつまた津波がやってくるかも知れぬ危険を犯して同行してくれる人は出てこなかった。現地に引き返してみると、もう既に声もしない。その方に対しては、今でも思い出す度に実に慚愧の念に耐えぬものがある。
 以後は遺体の収容に当たった。戸板の上に遺体を一人ずつ乗せて、東の妙見さんに収容し続けたのだが、誰と組んで行動したのか、その相棒を今は全く承知していない。浜筋が済んでから、現旭町と大牟岐田の田圃の遺体収容に当たった。
 当時の旭町は坊小路と言われ、道路より約二メートル近くも低地で、ここに約五十戸ほどの民家があった.観音寺川に沿って逆流して高ぶった津波の主流がこの土地にあふれて流れ込み、ほとんどの家が倒壊し死者十数人を数え、被害実に甚大であった。坊小路の倒壊家屋と遺体は、その北に隣接する大牟岐田の田圃に散乱し、遺体の収容にも大変難渋した。遺体は総て東の妙見さんに並べられ一応の検視を受け一杯になっていた。
 津波後、私はこの遺体収容の一日を終えると、公務のため翌日から役場に出勤せざるを得ず、部落を離れることになった。
 牟岐町内の死者五十三名のうち、中の島五名、西浦九名、東浦三十九名に達したが、その東浦のほとんどは東の東に集中している。そのうち一名は東の中で、当日朝、町外に入院の家内を見舞うべく、朝一番の列車に合せて牟岐駅へ急ぐ途上であった。それがたまたま木屋か中の島辺りでこの津波に巻き込まれて犠牲になったものと思われ、断腸の思い切なるものがある。
 この南海大地震による津波の大災禍は、長らく続いて来た第二次大戦がようやく終結した翌年のことであり、敗戦後の大きな心のショックと、底知れぬインフレの進行と共に、衣食住を中心とする困窮にますます拍車をかけるに至ったのである。

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海蔵寺

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