海が吠えた日 第13回「南海地震津波の教訓」 八十代 男性

2010年3月2日

昔の東の浜(K宅下付近) 現在は岸壁になっている

 五十年前当時は三十八歳、今八十八歳を迎えて、南海大地震につぐ大津波の状況を、自分の一家を中心に忘れ得ぬ追憶をたどって書いてみますが、高齢のため乱書乱文御免ください。
 昭和二十一年十二月二十一日夜明け(時計見る間なし)大地震のため、石とレンガで築いた高さ二メートルのかこい(囲い)が崩れてしまい、ただ呆然としている所へ、二百メートルぐらい離れた所に住む実兄がとんで来て「港の船溜りの潮が一滴もなくなってしもた、大津波が来る、一刻も早く避難せよ!」と言い残して自分は早く早くと言いつつ走り去って行きました。
 母は長らくの病気で、父はその看護に付きっきりの状態でしたが、早く逃げんと家内全部が死んでしまう予感がしたので、両親を見殺しにするやもと、家内全員が死ぬよりもと、両親を母屋から南の方につきでた「離れの二階へ上れたら上ってくれ」と言い残し、身を切られる想いで位牌の一部と少しの金を持ち、子供(三歳)一人を妻が背負い、六歳と九歳の二人の手を私が引いて玄関へ出たら早、外はつぶしぐらいまで波がきて、あわえを通るにも、雑物で通れず、直ぐ方向を変えて七間町へ出て、海蔵寺を目当てに走って行きました。
 波が先きに早い速度で押し寄せて来るが、ようやく海蔵寺の石段までたどり着き、大勢の皆さんとともに、お寺から町の状況を見たところ潮ははや引潮で、坊小路は目も当てられぬガレキの原で、父母は助かる見込み無しと断定した。その後、二度目の波が迫り来たが直ぐに引いて行きました。大きな危険を感じながらも父母の安否を心に祈りつつ家にたどり着くのに、ガレキの山を踏みこえてようやく家に着いた。家の中は空で何もなく、大声で両親の名を呼んだところ、かすかに返事があった。心のうちで、やった、〆たと急に涙がふき出て来ました。よく聞き出したところ、表の部屋で寝ていたら畳、布団が浮き上り、天井を突破り天井裏で立っていたら潮が引いて行ったので、この間にと、力を振り絞ってどうやら下へ降りて、ようやく離れの二階のつき出た一番高い所へ来ていたということでした。「おれらはかまわんから早くお寺へ帰ってやれ」と言うので、食事などいろいろとあるので、「危険が去ったら直ぐ来る」と言残して外へ出た。自分の家より東並や川添いの辺りは目も当てられず、かすかに助けを求めるウメキ声も聞きましたが、近寄って行くにも行けず、再度潮が来るかも知れず、両親や不幸な方たちに、身を切られるような思いを残し小さい子供たちのいるお寺へ帰りました。
 二日後大阪の妹夫婦が、握り飯、生活用具の一部を持って来てくれたことを、いまでも深く感謝しています。その後一か月、整理に費やし県や町から食物や生活物資のご支援を頂きました。
 今にして思うことは、大地震のあった時は、一分でも早く狭いあわえを通らずに、常に避難場所を考え、その行き着くまでの通路を腹に入れて、置くことが大切でしょう。橋を渡るということは、なるべくさけることも大事でしょう。

地図

海蔵寺

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