海が吠えた日 第7回「清流荘」座談会より 三崎より帰ってみれば 八十代 男性

2010年1月19日

牟岐町、田園の被害(徳島地方気象台)

 私は南海地震当時は、しび縄船に乗って、伊豆下田港に寄港していた。Mさん、Oさん、Tさん、もう一人誰か一緒だった。
 地震の知らせを聞いて家が心配だったが、船からは電報で連絡がとれなかったので漁船の無線局長を叱ったことを覚えている。神奈川県の三崎港からは、連絡がとれたようであった。
 家に帰ってみると、前は観音寺川だったので流されてしまって何にも残っていなかった。家の裏の石垣には、津波の跡として、重油の跡カタが黒くついて残っていた。その跡カタも三〇年ぐらいはとれずに残っていたが、現在では消えてしまって、何もなくなってしまった。もう一つ玄関入口のワキの地盤に、基礎石をセメントで固めてあったのが、三尺ぐらい(約一メートル弱)残っていた。それが我が家のシルシだった。
 地震の朝、妻は四歳の長男と二人で寝ていたが地震が揺れ終わってから、川向こうのYのHさんが、「津波がきよるのって、山へ早う逃げんせ!」と大きな声でとえるのを聞いて、仏さんも何にも持たずに着のみ着のままで、提灯をたよりに裏のガケをよじ登り、裏山づたいに妙見さんへと逃げて助かった。
 親戚のIも七人なくなり、Fも流されて頼っていくところもなく長い間困った。妻もなくなり当時の辛かったことも忘れがちになったが、大地震のあとに津波は必ずくることを、忘れてはならない。

地図

妙見さん

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