海が吠えた日 第5回「旭町復興に思う」 八十代 男性

2010年1月5日

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 南海津波体験者として念願の体験集が発行できることになり、発起人として喜んでおります。
 体験は大勢の方が書いてくれましたので、私は旭町復興世話人のただ一人の生存者として、震災後の坊小路復興工事について述べます。
 私はその夜するめ釣りに出漁して沖で津波にあい帰港しましたが、坊小路地区のほとんどの家庭は住む家も財産も失い、漁師は漁船や漁具も流されたり破損したりで漁にも出れず、親類知人をたよって苦労しました。私の家は半壊、家族は怪我もせず避難しましたが、生後二十五日で長時間潮に浸った二男は、五か月目に風邪をこじらせて死亡しました。
 さて津波後犠牲者の捜索収容、流失家屋家財道具、漁船等の整理後、壊滅的被害をうけた低地の坊小路地区をいかにして自力で復興するか、土地のかさ上げについて世話人を先頭に地区住民一生けんめいでした。私たちは幸いにも良き指導者Hさんを得ました。Hさんは自分の家も被害を受け、母親、伯母も亡くなったのに、家業も犠牲にして昼夜を問わず復興に全力を尽くしてくれました。Oさん、O組のAさんも指導者として物心両面から指導と援助くださいました。地主のKさん、Tさん、地上げの土を提供くださったHさん、応急住宅敷地を提供されたNさん、大勢の作業に奉仕してくださった町内の皆さん方のご協力によって、工期十か月、工費九五万円、五、七二〇名の延就労人員で翌年十二月完成、町民より募集した新町名は「旭町」と決定、新しい旭町が誕生しました。
 私たちは現在も震災当時大変お世話になった町内外の方々の援助に感謝し、先頭に立って地上げをしてくれたKさん、Oさん、前記の方々の苦労と恩を忘れてはなりません。私は世話人の中でも一番年が若く子あらいの最中でした。他の世話人の方々が「後は俺たちでやるから、お前は家の復旧費を稼ぎに行ってこい」といわれ、温かい言葉に甘えて地上げの途中で後をたのみ九州へ出稼ぎに行きました。
 私は若いころから坊小路で大きい台風(特に昭和九年の室戸台風など)、また、戦後数々の台風にあいました。
 戦時中は長崎で原爆にあい被爆しました。そしてまた南海津波では壊滅的な被害を受けました。私の一生のうち、原爆、地震、津波そして何回もの大型台風と恐ろしい目にあいましたが、苦しみながらも耐え立ち上がってきました。
 核戦争のない世界恒久平和を願うとともに、とかく歳月がたてば何事も忘れがちになりますが『災害は忘れたころにやってくる』『備えあれば憂いなし』この貴重な体験を風化させないよう後世に伝えたい。私の願いを実現してくれた「牟岐町南海道地震津波の記録を残す会」のN会長を始め編集委員の皆さん、教育委員会事務局の皆さんに心より御礼申しあげます。

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