海が吠えた日 第3回 「悔恨の南海地震津波」 六十代 男性

2009年12月22日

 牟岐町、道路に押し上げられた漁船(徳島地方気象台)

 昭和二十一年まで私の家は「坊小路」の観音寺川の左岸添い、日の出橋より北側三十メートルぐらいの所にあって、祖母と母と叔母に私たち兄弟妹五人の八人で暮していました。
 津波の前日、兄は四国電力牟岐変電所の夜間勤務で不在のため、私一人が二階で、他の家族は一階で床に就きましたが、この夜は十二月にしてはなぜか暖かかったような記憶があります。

 翌二十一日早朝まだ暗闇の中、突然今までに経験したことのない激しい大地震に眠りを破られ飛び起きました。この時階下から「揺れが止むまで怪我せんように蒲団を被っとれよ」と祖母の声が聞えたので、また蒲団にもぐり込みました。
 初めは横に揺れていたが、直ぐに上下振動に変わり、家は大きく軋り(すれ合う)、神棚や箪笥の上にあったものがバラバラと落ち、天井から下った電灯が振れて音をたてていました。この上下振動はどのくらいの時間か分かりませんが、しばらくの間続きかなり長かったように思います。

 地震が止むと、私はすぐに服を着て階下に降りましたが、雨戸が閉っており、外の様子は分かりませんが、騒がしい物音は聞えず静かなようでした。
 まもなく母や祖母が妹や弟たちに服を着せ終わり、皆玄関口の部屋に集まりました。玄関口の板間には収穫し乾燥を終えたばかりの籾を叺に入れ並べ置かれていました。このころは食糧難の時代であり、「これを二階に上げといて逃げよう」と母と祖母が言っている時に、外から雨戸を叩いて「津波が来るぞ、はよう逃げえよー。」と伯母の声が聞こえて、足早に走り去って行きました。後日伯母より東会堂前の道路付近で、腰近くまで波につかって必死で逃げたと聞きました。

 津波が間近に迫っているのも知らず、「子供らは先に逃げとれ。」と母に言われ、私が先頭に立って入口に行き、障子を開けた途端にドーン、ザーという音と共に、雨戸と雨戸の隙間から一斉に海水が吹き出してきました。「みなはよう二階に上がれ!」と言う祖母の声に、母は手をかけていた籾の一杯詰った叺を持って一気に階段をかけ上り、続いてみんなが二階にかけ上りました。

 いつの間に用意したのか母がローソクに火を点しており、その明りがみんなの顔を照らしていました。母が明りを持って波の様子を見に階段の所に行くと、わずか三メートルぐらいしか離れていないのに真暗になり、みんなだまったままでした。すぐに母がもどり「階段の上近くまで波が来とる」と言い、祖母が「もうあかんやわからん、死ぬんやったらみんな一緒や、手をつないで離すなよ」と言い、七人が輪になって手を握り合いました。

 ローソクの明りもいつの間にか消え、真暗闇の中でヒタヒタと波の走る音だけが聞え、ドーン、ドドーンと家に何か打ち当たる音が数回続いて聞えたと思った瞬間、突然家が崩れるように倒れ、家に押し潰されるようにしてみんなが水中に押し込まれました。
 私は水中で天井に頭を押えつけられ、いつの間にかつないでいた手を離し、必死になって天井板を突き破ろうと海水を呑みながらもがいていたところ、急に頭の上が軽くなって、壊われた家のや柱にまたがった格好で水面上に胸まで浮き上りましたが、近くにいたはずの家族の姿が一人も見えず無我夢中で水の中をさぐり、手にさわったものを引張り上げました。幸いにも弟や妹たち三人は間近におり、祖母は少し離れて浮き上っていましたが、母と叔母の姿は見当たりませんでした。

 真暗闇の中で浮いている不安定な壊れた家の木材にまたがって、胸近くまで海水につかった状態であり、祖母に「動くと危いからそのままでおれ」と言われ、みんなでこのまま夜明けを待つことにしましたが、海水につかっているので寒いとは感じませんでした。

 しかし私の着ていた学生服は、戦争末期に配給された荒い植物繊維のもので、海水を吸って肩にのしかかったように重く身動きがしにくいので脱ぎ、浮き上っている梁の上を伝って前に建っている家に近づくと、ちょうど胸ぐらいの高さに小庇があったので、そこに上着を置き、元の場所にもどって海水中に座っていました。この間にも津波は満ち引きを繰り返していたようで、梁や柱が動き軋る音がしていました。

 ふと気がつくと少し波が引いたのか、さっきの家の窓が開いているのが黒くなって見えたので、座っていた梁を伝って近づき中に入れないかと足を入れてみたが、畳が濡れているのか足を乗せると沈み込むようなので、あきらめて再び元の所に戻りました。
 いつしか暗闇に目が馴れてきて、私たちのまたがっている梁や柱は、元の我が家から七〇メートルぐらい上流の観音寺参道口の橋と、Hさんの家の所にひっかかっていると分かりました。暗がりの中を見透かすように辺りを見回すと、観音寺川右岸添いの家並みは何事もなかったように建っているのが見え、左岸添いの我が家の付近のみが流されたようで涙がこぼれ、後を振り返ってもみませんでした。

 こんな時に今日も何事もなかったかのように、一番列車の汽笛が何度か聞こえていました、次第に空がしらみ始め、足元が見えるようになり、「気をつけて道へ上がれ」と言う祖母の声に、みんなは梁や柱を伝って右岸の道に上がりましたが、この時には津波はほとんどひいていました。
 みんなで小松屋の前の広い通り(東七間町)を南へ、初めての交差点を東に向かいましたが、当時の道路は今のように舗装はされておらず、津波で土が洗い流され、角のたった小石がむき出しになっていて、水にふやけきった素足には突き刺さるような痛みをおぼえ、泣きそうな顔で踵をひくようにして痛さをこらえて歩きました。

 日の出橋までは、町並に何ら変わりはなかったが、橋を渡ると様相は一変し、坊小路地区は全滅状態で荒地と化し、残っていた家は半壊も含めて六軒ぐらいでした。町をはずれると路面は普段と変わらず、足の痛みも和らいだが、みんなは無言で後も振り返らず、びしょ濡れのまま灘(大平間)の伯父の家を頼って行きました。
 伯父の家には親戚の人たちが大勢避難してきており、すぐに母や叔母を捜しに出てくれました。私は濡れた衣服を焚火で乾かしてもらいました。夜勤を終えて惨状を知り、私たちを尋ね捜してきた兄と共に、母たちを捜しに行きました。

 大牟岐田の田圃には漁船が何隻もすわっており、蒲団や衣類、家財等が散在し、遺体もあちこちで見られました。昼前に母が、午後になって叔母が遺体となって見つかり、充分な弔いもできないまま翌日埋葬されました。
 次の日に家の跡地に行くと、地盤石も流されて跡形もなく、打抜き井戸ポンプの跡に、赤錆びた鉛管が立っているのみでした。

 ふと屋根に置いた上着のことを思い出し、取りに行くと上着は二階の窓の小庇の上に乗っており、川の中に積み重なっていた柱等はほとんどなくなって、三間余りの梁が一本残っていただけでした。伯父の家で一週間ぐらい世話になり、その間に拾い集めた数枚の蒲団等を、兄と二人で灘神社(権現さん)前の谷川まで運び、丸洗いして乾かし、救護物資の毛布、衣類、食糧等の支給も受けました。幸いにも通称「棒木」の畑に九尺×二間の納屋があり、ここで国の助成金を受けて外周りの出来た建築半ばの家に入居するまでの七か月余を過ごしました。

 津波に対する知識も現在に比べると乏しく、大地震の後に津波が来るとは聞いていても、まさかこのように早く襲ってくるとは、祖母や母も思ってもいなかったのではないかと思います。
 悪夢のような南海地震津波のことは、思い出すと気持ちが滅入り、あの時に欲をすててすぐに逃げていればと今だに悔まれます。

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