海が吠えた日 第2回 「坊小路で津波に遭って」 六十代 女性

2009年12月15日

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 それは昭和二十一年十二月二十一日朝方、まだ外は暗かったです。突然上下動の地震が起こりました。

 棚の物が次から次とみんな落ちてきました。そしてその揺れがしばらく続きました。「入口を開けえー、出られんようになるぞー」という声が聞こえました。私は位牌を出し弟に背負わせました。そして表に出ました。外は「竹藪に逃げろ!」等とわいわい大騒ぎでした。私は路地づたいに逃げて今の砂美の浜に行く道に出ました。その時既に暗渠には波がごうごうと押し寄せて来ていました。浜の方から「津波がくるぞー、高い所へ逃げえよぉー!」というどなり声が聞こえてきました。私は亀山神社の竹藪へ一度入ることにしました。すると皆が「畑へ上がらんか」と言い出しました。そこでまた、灘への道を東に向かって走り出しました。途中にごひち坂がありそこの細道を駆け上りました。そして戦時中に造った疎開小屋に着きました。皆でほっと溜息をつきました。ふと横を見ると弟がいません。私はびっくりして探しに坂道を転がるように下りていきました。名前を何度も呼びながらあちらこちらを探して歩きました。いつの間にか灘のFさんの家の前まで来ていました。その家の戸をたたきました。するとどうでしょうたくさんの人がいました。ちょうど朝食を御馳走になっているところでした。その人陰に弟の姿を見つけることができたのです。私はほっと胸を撫でおろしました。

 そのことを家族の皆に報告するために灘の道を下りて来ると、大牟岐田の田圃一面に家と船が流されて来ていました。私の家はどうかと思って急いで走って帰ると、柱は一本もなく家の形は残っていませんでした。辺りは同じように家の潰れたもの、ひっくり返った船等で道路は埋めつくされていました。観音寺も下は流され屋根だけが残っていました。後でこの附近に来た人が唸り声を聞きその方向に近づくと、屋根の下敷きになった老住職がいたとのことです。急いで屋根を壊して助けましたが、塩水をたくさん飲んでいたために亡くなったそうです。田圃の畦道には流されて亡くなった人がたくさん倒れて、死人の山が出来ていました。それぞれの家に蓄えられていたさつま芋が流されていて、それを拾って焼芋にして飢えを凌ぎました。

 日が経つにつれて町役場、消防団、婦人会の人が出て炊出し(握り飯と沢庵)がありました。その後進駐軍が毛布を配給してくれました。このニュースを聞き大阪に住んでいた姉や親類がやって来ましたが、汽車は地震のため日和佐までしか来れませんでした。だから山を越えて歩いて見舞に来てくれました。
 その後、家を流された人達に町が応急住宅(長屋)を建ててくれました。またHさんたちが中心になって、土地を約一メートルほど上げる工事をして旭町が出来ました。その時の記念碑が大牟岐田児童公園に建っています。

地図

大牟岐田児童公園

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