海が吠えた日 第1回 「九死に一生をえて」  八十代 男性

2009年12月8日

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 私の家は、昔の坊小路、今の旭町にありました。
 家の裏には畑があり、その向こうに観音寺というお寺がありました(今の東部保育所のところ)。

 五十年前の冬のそのころ、私は赤物縄で甘鯛を釣りに行っていました。四時過ぎだったでしょうか。大きな揺れでした。
 私はひいじいさんから、昔の安政津波の話をよく聞いていました。『安政の津波で、海蔵寺へ逃げたが、荷物を取りに家へ帰った人はみんな流されて死んでしもうた。大きな地震の後には、必ず津波がくるよって早よう高い所へ逃げえよ。』

 南隣りのおばあさんも起きてきて外へ出てきました。「津波が来るよって早よう一緒に逃げんけー」と誘いましたが、「うちは息子が病気でねよるし、嫁も大きな腹をしとるんで一緒に逃げれんのや」というて、家の中へ入りました。
 それから私たち一家六人はすぐに逃げました。

 私が三男(六歳)を背負い、長男(十二歳)の手を引き、妻は四男(三歳)を背負い、二男(十歳)の手を引いて、家と家との間の狭いあわえをぬけて畑の道へと出ました。妙見さんを目標に真暗な細い道をみんな走り続けました。
 しかし途中、灘道にあがる手前のOさんの家の横まで行くと、道の下に暗渠の口があって、はや潮がふき出てきていました。あっという間に腰までつかってしまいました。みんなが必死で流されないようにつかまっていましたが、三男が私の背中から落ちて波にさらわれ、暗渠の中へ吸いこまれてしまいました。長男も流されて、私と一緒に泳ぎました。妻たち三人も大牟岐田の田んぼの方へと流されていきました。三男を殺してしまったとガッカリしていた私の目の前に、次の潮で三男が暗渠の口からぽっかりと浮き上ってきました。本当に運がよかったのですね。あわててつかまえ抱き上げ、長男と三人でようやくSさんの畑へはい上がり、妙見さんへと辿り着きました。

 妙見さんには、大勢の人が避難していたので、一緒に焚火にあたり、濡れた服を乾かし、冷えきっていたからだを暖めました。妻たち三人を捜してみましたがどこにも見えません。みんな流されて死んでしもたのか?と半分はあきらめていました。そこへ北隣りのHさんが、「三人が助かって小林牧場で火にあたっている」と知らせてくれました。大急ぎでかけつけ、みんなの無事な姿を見て喜びあいました。

 やがて夜が明けて潮も引いていったので、私一人家に帰ってみました。家は跡かたもなく、地盤も残っていませんでした。ただ家のあった所に、チョウナが一本ぽつんと残っていました。でも家族六人全員が大きいけがもせず無事に助かって嬉しかった。隣りのIさん一家九人の家族は逃げることができず、家と共に流されて七人がなくなりました。本当に気の毒でした。

 私たちは着のみ着のままで逃げたので、その日から食物・着物・寝る家もありません。毎日親戚の家で一晩ずつ泊めてもらいました。ようやく応急住宅が出来、小さいながらも家族一緒に毎日落着いて寝ることができほっとしました。忘れてならないことは、被害のなかった町内各地区の皆さんに大変お世話になったことです。

 特にOさん・Aさん・Hさんのご指導と力添えで、世話人の方が先頭に立って、みんなで坊小路を地あげし、名前も新しく「旭町」に生まれ変わりました。観音寺川も古い川を暗渠にして上は広い道路になり、三男が吸いこまれた暗渠付近が新しい観音寺川になりました。
 旭町も立派な町になり、新しい家が建ち並び、保育所も立派なものが建っていますが、今の若い人たちは、観音寺川が町の中を蛇行して流れていたことも、津波で大きな被害を受けた恐ろしさ、復旧に日夜苦労したことも知りません。津波を知っているのは、今も東部保育所の砂場に立っている大きなクスノキだけになりました。

 私は自分が身をもって体験した津波の恐ろしさ、苦労したことを子や孫に、そして多くの人々に伝えて教訓として残していきたいと思います。

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