海が吠えた日 第58回 「南海大津波を体験して」 六十代 男性

2011年9月20日

昔の内妻の浜風景(故T氏撮影)
昔の内妻の浜風景(故T氏撮影)

大津波の前夜は弟とスルメ釣りに沖に出て帰り、春日神社下の内妻川口に舟を入れようとしたが今夜は潮がよく引いて川口ヘ入れることができない、止むを得ず前の浜へ舫綱を長くして舟を繋ぎ家に帰り、床にはいって、まだ十分体の暖まらない時に、ものすごい地鳴りと共に大地震となりバリバリメリメリと無気味な音に目が覚めた。

 

大地震はかなり長い時間ゆさぶり、体験したことのない大きさに家族一同飛び起きて来て、揺れ止むまで待機して、屋外に飛び出した。前のKさんと「今の地震はえらい大きな地震やったなァ」と話した。

 

「こりゃ、もうこれだけじゃ、心配なかろう寝んか」と一同家にはいる。この時には津波の来ることなど誰一人として話す者はいなかった。皆が家にはいり座敷に上った時であった。外で大声がかすかに聞こえ、耳をすましてよく聞くと、対岸のSの爺さんが「潮が来よるぞー」と叫んでいた。

 

こりゃ大変だと、裏口から着のみ着のまま裸足で飛び出した。逃げる際に川口の方を見る。

 

昔から内妻川は「流し」と入って丸太を大水を利用し川口まで流して来て積んであった。この材木が潮で流される音、堤防を越して落ちてくる潮の音、川を逆上する時に小石を鳴らしてこみ上げてくる音、ガラガラ・ゴロゴロ・ゴウゴウ………。テレビで見るナイヤガラの滝のごとくに聞えた。

 

真暗がりであるのに、白く泡立つ様が見えたのが不思議でならなかった。幸いにも自宅から山までが近かったので足も濡らさず、Sさん宅裏山(現在の阿佐東線の鉄路)まで一目散に逃げることができた。

 

その時である。父が「オイ!!馬を置いて来たなァ」と言う。当時私は十七歳の青年であった、「俺が馬を連れてくる」と馬小屋まで走る。馬は馬小屋でしょんぼりと立っていたが轡を持っていっても相手にしてくれないばかりかおじけて震えている、馬の背中に手をやると背中までびしょ濡れで、おまけに馬小屋の中に大きな杉丸太が流れて来ていた。

 

もう少しでも潮位が高かったらお前の命まで奪われていただろうと思うと急に涙が出てきた。首に綱を掛け「ハイ」と声をかけて引き出すと、ついに出てきた。

 

この時またも潮がこみ始めてきた。Kさん宅前の楠の木の下まで連れて逃げて来た。そのうちに東の空が次第に明るくなってきた。丸山の方を見てまたもびっくりした。

 

潮位は国道の路面から一メートルもないくらいまで、はっきりと跡形を残している。あの潮位では国道裏のM宅や島屋敷方面まで浸水しても不思議ではないと感じた。

 

内妻川を上った津波は島屋敷へ渡る橋の下の堰まで来ていた。

また昨夜イカ釣りに行き、浜に繋いだ舟は内妻橋を潜り、島屋敷側の土手を越えて、私の田圃まで錨を引いたまま、漂着しており、津波の威力に感嘆させられた。

 

内妻ではK宅が流失、U氏の納屋が半壊、私宅が床上浸水の被害を受けたが幸にも一名の死傷者も出さず一安心した。夜も明け津波も次第におさまり浜に出て見ると、沖は見渡す限り藁類・セイロ・家財・ドラム缶等が下がり潮に乗り浅川方面に流されていた。

 

津波の晩は、恐ろしくて自宅で寝ることもできずSさん宅の軒先を利用させてもらい夜露をしのいだ。小さな物音、予震にも身震するほど、神経が高ぶっていたが、時の経過と共に薄れていった。

 

光陰矢のごとしというが、月日の経つのは早いもので、あれから五十年経過したが内妻地区の今後の教訓として大地震が発生したら必ず津波が来るので近くの山か高台へ避難することと、学説によれば近い将来必ず来襲すると言われているので避難路を作り尊い生命と貴重な財産を守るよう子孫に伝え残しておきたい。

 

◆「海が吠えた日」は、牟岐町においてまとめられた「南海道地震津波の記録」です

詳しくは、牟岐町ホームページをご覧ください。

 

【参考サイト】

牟岐町ホームページ

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