海が吠えた日 第62回 「南海大震災―伝令と防疫業務」 七十代 男性

2011年10月18日

E化粧品店旧郵便局
E化粧品店旧郵便局 A、S両家の

大屋根が道路一杯に居すわった

昭和二十一年十二月二十一日午前四時十九分、突然の大地震だ。私は上の町の現在地に父母・妹・姪と住んでいたが、「アレ地震か」と思って布団の上に座ったが、縦横に大きく揺れ出す。父はすぐに入口や表の戸を一杯開け放して前の畑道に出ている。

 

妹や姪も表から出たらしい。母は大黒柱に向かい、地震の揺れに合わして、「世直し、世直し、世直し」と大声になったり、小声になったりで唱えている。私が庭で履物を探していると父が「何しよんな―早う出て来い―」とどなってどこかへ行った。

 

地震の大きな揺れはなくなった。母等は家の中へ、暗いし寒い。町の方が騒がしくなった。呼び声、叫び声が聞こえてくる。津波が来たらしい。人の避難しているざわめきが伝わってくる。YやSさんの方へ逃げて行くようだ。

 

私も役場へ行くため、上の町を南へ走り、路地を下の町へ抜ける。郵便局付近は電柱が傾き倒れている。電線が垂れてもつれているようだ。

 

小学校前の広い道は、何か大きな物が一杯あって進めない。大屋根のようだ。瓦の上を手さぐりで這う。ようやく一つ越すとまた大屋根だ(後で分かったがSの傘屋さん・Aさんの家が津波で、階下が壊れて屋根がそのまま押し流されて来たものだ)。

 

夢中で小橋迄行く。大きな船がのし上り(手繰船等三隻)暗いし、前方も分からず役場行きは無理で、回り道をして新町に出た。

 

Fさん宅付近の空地で、人々が焚火を囲み話しをしている。ふと見ると小さな裸の子供を焚火の端に寝かしてある。「どうしたん?」「流れていた」「こんな所に寝さしていたら大火傷する」と私はその子を抱いて、上の町の町立病院へ走った。

 

ちょうどN先生がいてすぐ診て「駄目や死んでいる」と言った。溺死である(この子の母親も亡くなっていた。駅へ行く途中に流されたという)。N先生に後をお願いして帰宅した。

 

家の囲炉裏の端に、若い男の人が座っていた。父の話では、商業組合の倉庫(今のM薬局)で仕事をしていたので、大工道具を見に行ったところ、Oさんがいたので背負って帰って来たとのこと。

 

父はOさんが泊っていたことを知っていて案じて行ったことだと思う。恐らく帰途路地を上の町へ上がる時に大津波が来襲、前述のように二軒の大屋根等を押し流して来たもので、本当に運がよかった。一瞬遅れていたら二人共亡くなっていただろう。

 

朝食をかき込んで役場に向かう。中之島地域は大惨状である。西の港近辺の建物は、壊れ流されている。役場も東南側は内部まで津波でメチャメチャ、残ったものは公会堂に移している。

 

役場業務は公会堂に移る。役場西側の健康保険組合は健在、私の仕事場所はここである。私は本年四月末、台湾から復員した。時々マラリア、三日熱が再発し、何日か臥床するが平素は元気である。日和佐保健所付で牟岐駐在員として勤務している。

 

大川は、二・三メートルぐらいの高潮が白い波頭を立てて川上へ逆流、登りつめるとサーッと引けるだけ引く状態を繰り返し、またも高潮が来るようで、まことに不気味である。夜釣りの漁船が町の異変に気付き帰港途中津波に乗り、大川橋の上を越して川長地区の田んぼまで運ばれ座っている。

 

東浦の観音寺川付近の家々が第二の大きな津波で流されて、多くの人々が、川の中で亡くなっている。女の人が多く、水の中でたゆとう黒髪が哀れであったとの大惨状が伝わる。

 

父は町内の大工さん仲間を役場前広場に集まってもらい、寝棺づくりの突貫工事を始めた。平素は棺桶であるがそれだけ犠牲者があれば、とても桶は間に合わない。父は寝棺の作り方を知っていたので、大車輪で製作して、次々と間に合わして行く。

 

役場では、この災害状況を日和佐地方事務所に連絡報告しなければならないが電信・電話は断線、汽車不通、道路の損壊状況も不明で車も駄目、行くにも徒歩覚悟でと人選していたが、皆それぞれ業務が大変とのことで行く者がない様子、それではと私が志願した。

幸い町職員のK氏が自転車を提供してくれた。

 

日和佐までの道路事情は分からないが、八時ごろ出発した。関から川又の人々は、まだ浜や町の災害が伝わっていないので、行き行き道筋の人々に「早く助けに行ってくれー」と叫びながら走った。寒葉坂峠へもう一息の所で、道の真中に何か落ちている。拾ってみると飯行李である。重い。開けると麦飯が一杯に梅干が入っていた。

 

付近には人影もない。「有難う」と誰にともなく礼を言って坂を下る。落合を抜け、山蔭を川に沿って走り、やがて西河内の家々が見える所まで来た時、目前が山崩れである。山頂近くから赤土と岩石が道路を埋め、乗り越えて川まで崩れ落ちていた。

 

幅は二〇メートルぐらいか、付近には迂回しても対岸に渡る所も見当たらない。時間もない。「エーイままよ」横切ろうと自転車を担いで崩れの中へ、岩を避け赤土に足をとられて自転車を滑らし、上へ下へと必死になって横切る。ようやく向こう側の道に出た。

 

泥んこだ。自転車は異状なし、休む間もなく走る。西河内の山鼻を廻ると日和佐の町が見えてきた。

桜町はまことに平穏であったが、橋の袂の三角屋根の小さな家が全壊していた。厄除橋は右岸側の橋桁が四分の一ぐらい残り、後は流されていた。渡船が用意されていて直ぐ向かい側に渡してもらい、日和佐地方事務所に走り込む。正午ごろだったろうか。

 

日和佐町は、人家にほとんど被害はなかったようだ。責任者に牟岐町の、「地震と津波の被害、惨状」を報告し、早急なる救援作業人員の派遣と物資の援助方を要請した。このことは事務所職員にも伝わり騒然となる。保健所にも寄って報告。防疫薬品、救急用品の早急手配方を要請してようやく落着く。でもゆっくりできない。帰り道が気掛りだ。

 

西河内の山崩れ場所に来たが二次の崩れもなく、帰り気分もあってゆっくり越した。何時ごろ帰町したか覚えていないが、町長に復命した。さすがに疲れて戦争中の決死的伝令気分ということか。

 

翌日海上運送便で、第一次救援物資が到着する。伝染病予防のため、町衛生課・健保組合等の職員共々で消毒液、DDT等の薬品の配布に従事する。

隣町浅川が牟岐町以上の被害であるとの報せで救援作業班が組まれた。

 

私も参加する。トラックで走行、粟の浦より徒歩、道路も何もない。ただ河原である。伊勢田川の橋も流れてなく、ずっと奥の田んぼに漁船が何隻も座っていた。天神下から町へ、海岸沿いは特に酷い。

 

町の中央部に行き不明者の捜索にあたる。倒壊家屋の屋根梁桁等の上物を取除く作業はなかなかだ。ようやく入口近くの床下で泥まみれのおじいさんの遺体を見付け収容する。浅川の被害も大変であった。早く帰町する。

 

私は防疫器具、薬品も整ってきたので町内の津波による浸水地域の家屋内、特に便槽及び周辺の消毒作業を始めた。味噌も糞もいっしょに流れて伝染病の根源になっているからだ。毎日早朝から日一杯消毒入りのタンクを背負って、西浦、中の島、天神前、東浦と消毒液散布である。各地区何回も行った家もある。

 

この作業に不眠不休とはいかないが一か月を掛けた。町には正月もなかった。お蔭で町には伝染病患者は一人も出なかった。町医のI先生が「良かったなあー、よく働いてくれた」と労わり褒めてくれた。私も自己満足であったがそれは私たちの働きのみではない。次の好条件が伴ったからだ。

 

一、時期が一番寒い時節であった。

二、各戸の早期の消毒剤の使用散布。

三、再三の町民への予防接種と各人の自覚。

四、私たちへの防疫作業への積極的協力。

 

しかし、町職員が予防接種を余り受けないので、協力するよう町長と意見対立があった。その後出羽島で赤痢に数名の人がかかったが大したことなく済んだ。港内で食器類から他のものも一緒に洗っていたからだろうという。

 

本当に予想もできない天変地異の大災害が起きることをお互い知るべきである。地震と大津波は百年目ぐらいに起こると記録にはあるが、当時の体験者は生存していない。私たちも生存中には、このようなことには遭遇しないと思う。

 

そこで故人も私たちに、それぞれ何かを申し伝え残したように、私たちもこの貴重な体験のひとつでも子供や孫たちに伝えて行くのが、子孫繁栄のための大きな使命であると思う。

 

今回私の父が地震と同時に入口や表の戸を一杯開けたというのは、家の建具が違い、柱が傾くと戸が開かずに出れないということだった。良きにつけ悪しきにつけ、いろんな体験を言い伝え、また書き残すべきである。

 

◆「海が吠えた日」は、牟岐町においてまとめられた「南海道地震津波の記録」です。

詳しくは、牟岐町ホームページをご覧ください。

 

【参考サイト】

牟岐町ホームページ

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