海が吠えた日 第63回 「南海地震―その朝一番列車は出たが!! 」七十代 男性

2011年10月25日

牟岐線開通後 中央橋が完成している
牟岐線開通後 中央橋が完成している

昭和二十一年当時牟岐駅構内には、石炭台、給水柱、転車台、乗務員の休憩室、炭水手の宿舎等があった。最終で着いた機関車は乗客が降りた後石炭台に停車し、満炭満水して始発の準備をしてから乗務員は構内の宿舎で泊り、私たち機関士は給水柱の上側の民家で泊っていた。

 

二十日最終の機関車はC一二-一七三号で、この機関車に乗ったら人を刎ねるか敷くかで、縁起の悪い機関車と乗務員は嫌っていた。私は戦時中山陽本線の列車に乗車、終戦後は徳島に帰って県内の国鉄に乗車していた。

 

空襲は体験していたが自宅は山川町(旧川田)で津波など全然知識がなかった。

さて一番列車の機関助手(十六歳)と見習(十五歳)は発車一時間前に機関車に乗り、出庫準備をするよう規程づけられていた。十二月二十一日朝もいつものように助手が四時二十分ごろに「準備ができた」と起こしにきた。

 

ちょうどその時寝ていた部屋が大きく揺れて柱時計が落ちてきたので、ふざけて相撲をとっていると思い「こりゃ、静かにせんか!」と叱ったら「Mさん、地震や」と言われて飛び起ぎた。急いで鞄と携帯品を持ち外へ出たら給水柱が大きく揺れていた。

 

駅舎へ来る途中暗闇の中に東牟岐から西牟岐の方へ「津波じゃ、津波じゃ!!」と叫びながら提灯を持って動いているのが見えたので、何事が起こったのかと不思議に思った。直ぐに駅から徳島事務所へ電話をかけたが通じない。

 

とにかく自動車もなく鉄道だけが頼りの時代で、時間どおりに列車を動かすよう二番ホームに機関車を着けて発車の準備をした。乗客は男性が一人乗っていた。

 

駅の待合室の中へも津波がきており、駅前付近には漁船が流れてきていると聞いたが、とりあえず切符、重要物等を客車に積み込んで辺川駅まで行くことにした。依然電話は通じず被害状況も分からない。保線区員は辺川駅までは行けるとのことで、一〇〇メートルぐらい先までは異状もなく確認して定刻(五時三七分ごろ)に発車した。

 

災害時には窓を開けて運転するよう規定されていたので、注意しながら運転した。

五時四〇分ごろ河内小学校裏付近までくると、最初の鉄橋の手前で誰かが雷管四個を据えて鳴らしていた(当時は非常用の懐中電灯もなかった)。

 

鉄橋の手前二メートルで急停車飛び降りて見ると保線区の臨時職員がおり、鉄橋の橋台部分が地震で落ち込みレールが浮いて吊橋のようになっているとのこと。直ぐに機関助手を「鉄橋が壊れている、六時に列車をバックする」と牟岐駅まで報告に走らせた。

 

六時にバックを始め信号機まで来て停車、青信号に変わるのを待ってホームに入った。駅舎の中にも波が来ており、列車を停めて降り駅前に出て見て驚いた。七~八トンの船が横倒しになっていた。鯖やスルメイカが飛び跳ねており、駅前付近は家も少なかったが壊れたり、トイレの汚物が道路に溢れ片山製材の原木や漁船も流れて来ていっぱいになっていた。

 

依然徳島への電話は通じない。自動車も通らない。陸の孤島となってしまった。さて食べ物に困った。朝食は昨夜持って来た弁当を食べたが、牟岐駅には米の蓄えはあまりなかった。機関助手たちは町の食糧営団へ行って濡れた糯米を一俵もらって二人で竹竿で担いで帰って来た。 駅の女子職員が炊き出しをしてくれた。昼飯も晩飯も握り飯にたくあんだった。

 

日目も電話は通じず、三日目の夕方非常電話で話し中の音が聞え出し、ようやく徳島機関区に通じた(鉄道電話は普通、運転、非常の三種類通話があった)。「Mです」というと、「生きとったんか」「生きてぴんぴんしている」「どんな状況か」「口では言えん」その時の現況状況記録はくわしく控えていたが向こうは「津波」がピンとこない。幸い牟岐駅には石炭も水もあった。

 

牟岐駅待機となったがじっとしていても仕方がない。被災した保線区員も家の片付けが終わり、牟岐側からも線路の修理をして行こうと五日目から始めた。

牟岐駅で握り飯をつくってくれ機関車で現場まで運び徐々に直していった。徳島側からも直してきていた。

 

赤河内駅(現北河内駅)の北側の鉄橋の修理が最後だった。四国総局のA施設長が視に来て私も機関車で赤河内駅まで行ったが、鉄橋の下に枕木などを高く積み重ねて、機関車だけで試運転をしてくれと言われた。

 

「心配ないんですか?」と問うと「心配ない」「ではあんたも一緒に乗ってつかさい」と言うと施設長が「僕も乗りますわ」と一緒に乗ることになった。私は「国から預っている機関車で安全第一だから、最高責任者が一緒に乗ってくれたら安心する」と言って鉄橋を渡ったが、機関車だけでも鉄橋がしわった。強度を補強してくれと要望して、また牟岐駅まで引返した。

 

十九日目の夕方ようやく自宅に電話が通じ安全を報告した。剃刀も持っておらず髭茫茫頭髪ものび放題で正月も帰れず二〇日ほど牟岐にいた。

 

終戦後で列車の便数も少なく当夜徳島~牟岐間には列車がはいっていなかったので、徳島より全線時速十五キロで帰って来いと命令され、四時間あまりかかって減速運転でようやく徳島駅に到着した。

 

当時私たち国鉄職員は使命感に燃え、二十日間家のことは考えなかった。お客さん安全第一を目標に勤務した。五十年たった今日思い出すのは、あの災害を知らしてくれた保線区員のことである。残念なことに名前が分からない。会ってお礼をのべたい感でいっぱいである。

 

○当日の乗務員 当時年齢 出身地
機関士 M (二十歳) (Y町)
〃助士 N (十六歳) (T市)
〃見習 K (十五歳) (A町)
車掌 A   (Y町)
牟岐駅助役 亡F    

 

◆「海が吠えた日」は、牟岐町においてまとめられた「南海道地震津波の記録」です。

詳しくは、牟岐町ホームページをご覧ください。

 

【参考サイト】

牟岐町ホームページ

地図

牟岐駅

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