震潮記(第1回)-宍喰浦成来旧記之写:永正九年八月四日(1512.9.13)

2008年7月23日

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参照口絵 唐筆 仏涅槃像

宍喰浦成り来たり旧記の写し

 

一、 宍喰(ししくい)浦は、永正(えいしょう)九年八月(一五一二年九月)に大津波の襲来で、宍喰浦中が残らず流出した。その時、城山(愛宕(あたご)山)へ逃げのぼった者は数十人であった。南橋より向こうの町分(正梶(まさかじ)地区)は残らず流出してしまった。

 

   しかし、この所は山が近いので人命の被害は少なかった。橋より北の町家は、家の被害は多くはなかったが、死者が多く出た。およそ、その時南北両町の老若男女合わせて死者三千七百余人、助かった者は千五百余人であった。橋より向こう(正梶)の町家は、残らず流出し、土地はことごとく掘れて、一面の川となってしまった。

 

  在所はすべて失くなり、助かった者は北町の方へ集まり、その時の城主、藤原朝臣(ふじわらあそん)下野守(しもつけのかみ)元信(もとのぶ)公、同じく宍喰村城主藤原朝臣孫六郎(まごろくろう)殿のお屋敷とすべての寺社はいうまでもなく、町家も残らずそれぞれ町並みにして復興されることになった。

 

一、 復興した諸寺、諸社は、合わせて十三ヵ所である。
   その内九ヵ所が寺院で、この内五ヵ寺は真言宗である。
   同じく一ヵ寺は禅宗、二ヵ寺は浄土宗、一ヵ寺は岡山薬師堂である。
   同じく四ヵ所は社で祇園拝殿、一供一ノ宮、八幡本社・拝殿共、愛宕社一ヵ所は南山の上にある。

 

一、 御城内分は傷みも少なく、下屋敷(別邸)、御家中町(家臣の住む町)で復興されたのは百三十軒である。

 

一、 町家は、千七百軒で、郷、浦(里の村、海辺の村)ともである。
   内、六百五十軒が配地(城主の支配地)百姓。
   同、千五十軒は町家である。

 

一、 古くから、当浦(北町)の東の海辺に大松原があり、この松を切り払うとともにそのほか北、南、西に山林が所々にあり、この分を残らず切り払い、家の建築材料にした。
  寺院、神社、一般の家数すべて合わせて、千八百五軒であった。
  永正十年十二月中旬に、このとおりに終わったという記録である。

 

一、 永正九年の大潮(大津波)の時には、愛宕山に城があり、正面の土居(城や家の土の垣や囲い)に大手の大門があったが、これを閉じていたので、城内へ入ることが出来なくて、そのため死者が多く出たそうだと伝えられている。


九ヵ所の寺々の名称、場所

 

一、 一ヵ所は、城山の大成院惣感(そうかん)寺は禅宗であり、殿様の御菩提(ぼだい)寺で知行付(菩提料を支給された)寺である。寺院は城山の南西にかけて、大藪(やぶ)があり、その内にある。

 

一、 一ヵ所は大師堂の談義所(説法する所)である。これは古くからあり、ここは宍喰浦や里分(宍喰浦以外の村)の寺院のもので、七月七日にこの寺で死者の霊を慰めるための追善供養をする所である。宍喰浦をはじめ、各里分十六ヵ寺の真言宗の僧がこの談義所へ集まって、七月七日より十四日まで休みなく読経(どきょう)する。町中より芳志があり、衆人や僧を供養し、盆の施(ほどこし)をし、先祖の水祭りをすることになっている。

  この寺は唐筆の両界涅槃(ねはん)像(お釈迦(しゃか)様の亡くなられた様子を描いたもの。口絵参照)や、そのほか諸品(ほん)、仏道具を両城主より御寄進があり、この寺のある所は、城山より北東に当たり、松原の外側で、馬を馳(は)せる場所の脇にある。お堂は七間(十二.六メートル)四方に作られている。

 

一、 一ヵ所真福寺は、真言宗である。寺内は本供(ほんぐ)寺(本具寺)の西方、北城山の西下にある。

 

一、 一ヵ所円通寺は、真言宗である。鈴ヶ峰山の別当(べっとう=寺務を執る僧職)寺内、北の城山より北西の方に、高山の古い霊場跡である。今年まで百八十年余になる。弘法大師の御開山である円通寺は、鈴ヶ峰山大門の下脇にある。

 

一、 一供一ノ宮祇園は、本地(日本の神様の本体である仏)の供所(そなえどころ)である。毎年この所において、正月七日に的始(まとはじめ=弓始め)があって、五穀の祈祷所である。土地は安養寺谷の上(かみ)にある。

 

一、 一ヶ所浄土宗の安養寺は、鈴ヶ峰山の南の下、すなわち安養寺谷という所にある。

 

一、 一ヶ所は祇園社で、土地は岡ノ山、安養寺より北東に当たる所にある。

 

一、 一ヶ所は八幡社で、土地は中川原である。安養寺より南に当たり、小山がある。この所に角井久文水(かくいくもんすい)という社人(しゃにん=神職)がおり、両城主より社田などをお付け下さっている。

一、 一ヶ所は薬師堂で、土地は岡ノ山上野という所にあって、別当聖福寺は真言宗である。 これは藤井山(ふじいざん)重輪院(じゅうりんいん)といって、宍喰村城主孫六郎殿の御菩提寺であり、知行(支給された土地)として田地五反(五㌃)を付けられている。

 

一、 馳馬(はせば)村といって、家数二百軒余りの在所であり、往還道(街道)筋にある。

 

一、 角坂(かくさか)村の観音堂、禅興寺は、両城主の信仰の厚い仏寺である。ここは家数百五、六軒ある在所である。

 

一、 大山権現は古跡で、お寺の数は十二防あり、唐(とう)より渡来したという小鐘が一つある。
 この山に唐木といって名木がある在所がある。塩深(しおふか)村といって、数ヵ所の谷々があり、家数三百家余りあるよいところである。
 往還道は、大山から北手へより、鳥居坂といって大きな鳥居が立っており、殊の外権現へ人々の信仰が厚く、参詣人が多い所である。

 

一、 大山神社の別当寺は、大滝山藤野坊といって、十二坊の本寺である。寺内は大山の中ほどにあり、ほかの寺々もその両脇に立っている。古い人達の言い伝えを聞くと、永正年中(一五〇四~一五二〇)より天文(一五三二~一五五四)までは、この記録のとおりであったといっている。

 

   また、天文十八年(一五四九)のころより乱世が度々あって、その後にだんだん変わり、元亀三年(一五七二)の末より乱世が鎮まり、天正元年(一五七三)に海部一郡を左近将監(さこんのしょうげん)という人が支配し、領主になったといっている。
  また、一説に益田豊後(ましたぶんご)殿(海部、鞆城(ともじょう)の城代)より泰平になったとも言い伝えられたそうである。


  右は、日比原の川島氏(庄屋)にあるところの旧記を書き写し置いたものである。

 

(田井晴代訳「震潮記」)

地図

海陽町宍喰浦

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