震潮記(第4回)-震潮円頓寺旧記之写:慶長九年十二月十六日(1605.2.3)

2008年8月15日

慶長(けいちょう)九年十二月十六日震潮円頓(えんど)寺旧記の写し(その三) 

 

   第四、十九日同刻の時分である

 

   一、不思議なことがあった。当寺(円頓寺)の什物(じゅうもつ=平常用いる器)の大缶子(かんす=茶釜)と真福寺の什物の缶子は、両寺とも寺のうちに砂に埋まっておったからか、少しも傷んでおらず、十二月二十日午後四時に掘り出した。大日寺代々の什物は多く流出してしまったそうである。

 

   宍喰浦の寺の中でも正法寺は、すべて本尊なども流出し、そのほか諸道具も何によらず失ってしまった。
  町中の人たちも、少々ずつ何でも取り集めている人もあり、人の物をわが物とする人も多く出て、年を越して新年になるまでのうち、いろいろの取り調べがあって、珍らしいこともあったと聞いた。

 

一、十五反帆(ほ)(約四百石積)の廻(かい)船、十七反帆(約六百石積)の廻船数艘(そう)が日比原の在所より奥へ入り込んでいたのを取り除いて、浜へ出し、そのほか小舟などは正梶の関に掛かっているのは、人々の力で手かきにして、浜へかき出し、さてさて大変であった。翌年の四、五月までは何だかんだの騒ぎであった。

 

 

同二十三日、真福寺寺内にて書く

 

一、真福寺の寺内北の角で古い茶つぼ一つ、十二月二十三日に掘り出した。殊の外昔の物という。

 

一、同日、当寺は慶長二年(一五九七)の秋建立するよう言いつけられ、建立してから八年目に流失した。

 

一、真福寺は、本具愛染坊(ほんぐあいぜんぼう)という旧跡を元のように改めて、宥真の代に、当寺より一両年も前に建立されたそうで、両寺とも建立して間もなく、流失した。
  拙僧(宥慶)は、これより二十丁(約二・二キロ)ばかり行った円通寺という所にいた。宥真の紹介で真福寺に来た。

 

    あらあら書き記したけれども、大変事(だいへんじ)の折りの気分ゆえ、どのように書いたかも分かり難いことである。その上、あれやこれやのことは、見聞きしたごとに書き、または、思い出すたびごとにも書き記した。もっとも、前後になっているにつき、このように要らないことかもしれないが、書き記すものである。

 

(田井晴代訳「震潮記」)

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