震潮記(第5回)-震潮円頓寺旧記之写:慶長九年十二月十六日(1605.2.3)

2008年8月22日

慶長(けいちょう)九年十二月十六日震潮円頓(えんど)寺旧記の写し(その四)

 

宍喰浦里の庄屋政所(まどころ)
         川野 伊与市 

  

     当浦里真言宗十月五日三日の法事供養米寄附の帳

   お渡しする証文のこと

 

   一、当浦里のことであるが、前々より談義所といって、浦里の御結衆が持たれているところである。このことは、いままで中断していたのを、この時より不断会(ふだんえ=たえずお勤めをする)を改めて、浦里六ヵ寺の御結衆が五日、三日の法事を七月に修行するようにしてきたが、昨年の大変事で、思いのほか流死人が多く出たので、これによって、浦里の人々に相談の上、今年より十月に取り決め、前々の習慣の通り、五日、三日の法事を行うよう、御結衆としてお勤めされ、諸宗派の方々にも伝え、先祖の初法界万霊(はつほうかいまんりょう)(含、無縁仏)の回向(えこう=仏事を営んで、死者の冥(めい)福を祈る)をすることになった。

 

   そこで、今後御法事の供養米、浦里として米二石をその年々の順番のお寺へお渡しするように、浦里一統は今日相談をして、後のため書物にし、捺印(なついん)して浦里六ヵ寺御結衆中へお渡しした。
  右の通り、御結衆お仲間で、よく相談の上、これ以後は各年々、その年々の順番を決めておき、その年の当寺より、他の方々へご案内していただければ、右寄付の米は早速お渡しする。
   よって前文の通りである。

             

                          宍喰浦里政所
                   川野 伊与市 印形
  慶長十年(一六〇五)正月七日

      宍喰村久保          多田 太郎左衛門  印形
      宍喰村日比原(ひびはら)肝煎(きもいり=世話人)
                     左五兵衛  印形
      宍喰村尾崎(おさき)  同  甚左衛門  印形
      宍喰村馳馬(はせば)  同  与五左衛門 印形
      宍喰村大野       同  忠兵衛   印形
      宍喰村影畠(かげばたけ)同  実左衛門  印形
      宍喰村広岡       同  権右衛門  印形
      宍喰村藤谷       同  三五郎   印形
      宍喰村小谷(こだに)  同  彦太郎   印形
      宍喰村角坂(かくさか) 同  与次右衛門 印形
      宍喰村塩深(しおふか) 同  孫太郎   印形
      宍喰村船津(ふなつ)  同  彦十郎   印形
      宍喰村久尾(くお)   同  源作    印形

 

   右の通りに今年より定め、浦里六ヵ寺御結衆中へ渡しておき、その年の皆々方へ、その年の御当寺よりご案内次第、米を渡すこととする。
     以上

 

   慶長十年正月七日
     宍喰浦里真言結衆六ヵ寺
           大日寺隠居  宥傳(ゆうでん)  様
           正福寺    宥巌(ゆうげん)  様
           真福寺    宥真(ゆうしん)  様
           西光寺    良雄(りょうゆう) 様
           成福寺    宥応(ゆうおう)  様
           円頓寺    宥慶(ゆうけい)  様

  慶長十年(一六〇五)十月より、浦里真言結衆法界万霊有無両縁の回向のため、五日、三日の法事は先例をもってお勤めするので、各ご相談の上、供養米として二石宛(ずつ)、年々各々よりご寄付下さることをご連判にて書物をして、六ヵ寺の皆の中へ正月七日にお渡しし、確に皆々見届けたので、書物の奥に六ヵ寺の関係僧侶が請持(うけもち)書をもって承知しておきます。

           真言宗一ヵ寺
   慶長十年正月七日   大日寺隠居  宥傳  書判
              同正福寺   宥巌  書判
              同真福寺   宥真  書判
              同西光寺   良雄  書判
              同成福寺   宥応  書判
              同円頓寺   宥慶  書判

    

      宍喰浦里総庄屋政所
          川野 伊与市殿
    宍喰村在々 肝煎人
          衆 中

 

  右は慶長九年十二月十六日の震潮大変円頓寺旧記の写し

 

 

  慶長九年十二月十六日(一六〇五年二月三日)、午前九時より午後三時まで大地震で、同午後五時月の出るころより、大波が入って来て海上すさまじく、総浦中の泉より水のわき出ること二丈(約六メートル)余り上り、地は裂け、泥水がわき出て、言語を絶する大変で、そのころ皆々古い城山に逃げのぼる人数百七十余人、老人や子供は道にて波に打ち倒れ、皆々流死した。

 

  町家、寺院など流れまたは倒れ、ことごとく破失し、諸道具は混乱流失、または地に打ち埋まる所一尺(三十㌢)あるいは土地によって二尺から三尺(約六十~九十センチ)砂に埋まり、十七反帆、十五反帆の廻船数艘が日比原在より奥へ流れ込み、そのほか小舟などが正梶の井関辺りまでに掛かっていた。
  山野にて飢えをしのぐこと三日三夜、ほうろくで食物を煮焼きして命をつなぐ。霜、雪に閉じこめられ、人々の困窮は言うまでもなく、溺死人は千五百余人であった。

  翌十七日午後二時より山を下りてみると、城山より西北の方に一面、人の死骸(がい)で目も当てられず、北往来道筋も同様であった。
  そこで、久保の在所内に二ヵ所を総塚にして死骸を埋め、その後、地蔵石仏を建立した。祇園西手の山際である。


 

   (田井晴代訳「震潮記」)

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