震潮記(第7回)-震潮日々荒増之記:嘉永七年十一月五日(1854.12.25)

2008年9月5日

嘉永(かえい)七年十一月五日震潮日々あらましの記(その一)

 嘉永七年(一八五四)旧暦の十一月はじめ二日ごろから、空には少しの雲もなく、海面は畳を敷いたようで小波もない。海底から小さい貝のような物が一面に浮き上がり、四日の朝になって海面はますます凪(な)ぎ渡ってわずかな風もなく、また、諸鳥の鳴き声もまれまれになり、何となくもの静かになった。

 

 そうしたところ、この日午前九時、中揺りの地震が続いて二度あり、海面に俄(にわか)に大波が立ち、あじ島を打ち越えて、川の中ほどまで潮が三度入って来た。
  人々は大変驚いて四方へ逃げ散った。米麦や諸道具を山上へ持ち運び、今にも津波が襲ってくる心地がして、大騒動となった。

  夜に入ってからも同じ騒ぎは続いた。万一、出火するかも分からないので、役人達は火の用心の警戒に回り、浜辺ではかがり火を焚(た)いて、潮の異変になったならば、知らせるよう手配をしておき、家々に残っている者たちは、知らせがあれば少々ずつ身のまわりの物を持って、愛宕(あたご)山へ逃げのぼるという覚悟で、浜辺より今にも知らせが来るかと心細くも待っていたところ、夜十時ごろ中揺りの地震が一度あった。

 

 家々に残っていた者も大半は逃げ去り、諸道具も持ち運び騒々しく、また、浜辺には潮の異変に気をつけ、かがり火を焚いており、諸方へ逃げ退いた者は、かがり火が消えたならば、津波が押し寄せてくると思って、遠見から見守り、本当に薄氷を踏むようで心細く、言うようなことでなかった。

 

 明け方になって、少々人心地になり、翌五日、潮の異変も少しばかりは直り、地震も穏やかになったので、あちこち逃げていた人々は、諸物を持っておいおい戻って来るような状態で、これで少しは穏やかになった。

 

 この日、お蔵米を運ぶため、郷分(ごうぶん=浦以外の在所)よりも人馬がお蔵許(くらもと=藩の米を入れてある蔵どころ)まで来たけれども、折々潮の異変もあったので、お積み取りは見合わすことにした。

  

 既にお積み取りになるところを、よくも見合わせたものだ。かれこれ過半積み込んだ時刻には、大地震・津波になるところで、もし、そうなれば多くの人馬はよもや無事ではなかったであろう。
 この積み入れになる奥浦(おくうら)の庄助(しょうすけ)の舟が港に入ったとき、潮が高くなり船子(ふなこ)とも伝馬船(てんません=荷物などを運送する小舟)に乗り逃げたところ、たちまち潮に押され、四つ辻まで流され、ようやく樹に取り付き命は助かった。

 

  また、諸方へ逃げ去った人々もおいおい戻ってきたけれども、何分空の模様も常に変わり、わずかな雲も風もなく、日の光も半分近くも欠けて日食のようで、また、諸鳥の鳴き声も聞かず、ただただものすごく、時間がたつほどに太陽の色もおいおい悪くなり、正午ごろよりは、太陽の光が黄色に変わり、人々は怪しんで、またまた逃げ支度などして諸物を山上へ運び、その騒動は大変なものであった。

 

 そうしたところ、午後五時大地震が一度あって、たちまち地面が裂け渡り、泥水を吹き上げ、井戸水は一尺(約三十㌢)から二、三尺(約六十~九十センチ)ばかりも吹き、所によっては地震半ばに、はや五、六寸(十五~十八㌢)ばかりも水が流れ渡って、木や竹の梢(こずえ)は地に着くばかりに揺れ、川の水も二間(約三・六メートル)四方あるいは三間(約五・四メートル)四方が一固まりになって、所々に水を吹き上げ、また、川原などは小石とともに水を吹き上げ、中渕(なかぶち)(中角(なかつど)ヵ)辺りは水を吹き上げること四尺(約一・二メートル)ばかりから五尺(一・五メートル)ばかりにもなって、そのすさまじいことは言葉にならないほどであった。

 

 また、田畑は残らず水を吹き上げ、あるいは砂を吹き一面に裂け渡り、その口は青色に裂けていた。
  家々の軒は落ち、また、瓦の飛ぶこと投げ打つようで、壁は落ち潰(つぶ)れ家など続出した。沖からは潮煙を立てて波が押し寄せ、町中煙が立ち込め、五、六間(約九~十㍍)先は見分け難く、皆々揺り倒され、樹に取り付き、垣にすがるなどしているうちに、少々地震もゆるみ、老人、病人または幼い者を助け、揺られながら、手近な山へ逃げのぼった。

 

 親子といえどもひとつ所にいない者は助ける暇もなく、潰れ家に親を打たれ、あるいは子を打たれ、それさえも見返ることが出来ず、また、何一つ持って立ちのく間もなく、命からがら逃げ散ったところ、たちまち逆波(さかなみ)が来ること三度、最初の潮はあめやはり渕辺りまで、二度の潮は正田薬師森より一丁(約百十メートル)ほど下(しも)まで、川筋は日比原村より半丁(約五十五メートル)ばかり下まで、北手は鈴ヶ峰の麓(ふもと)まで押し寄せた。

 

 また、二度目の潮の引くこと中磯の沖一丁(約百十メートル)ほど先まで、ただ一面の白浜となり、続いて三度目の潮が来たけれども一番目の潮くらいのことで済み、これより続いて来る波もなかった。
  愛宕山へ逃げのぼったのは五百七十二人、そのほかは祇園、八幡、また、日比原、尾崎、広岡辺りまで家内別れ別れで逃げ延びた。
  浜辺に居合わせた者は、そのまま舟に乗ったところ、逆波に打ち返されて溺死した。

 

 幸いに川筋、古目(こめ)辺りへ流れついて、命が助かった者もあったが、必ずこのような時には、船などに乗ってはならない。
   方々にも船に乗り、溺死した者は数多くあった。出来るだけ早く、手近な山へ逃げのぼるにこしたことはない。
   先年の津波の筆記にも、くれぐれも言い残してある通り、よく心が迷い、逃げのくことの遅い者は死亡している。
    この度も同様の有様で、命を失う者が少なくなかった。
     また、山上に逃げのぼった者は命が助かり、船に乗った者は多分死亡した。
  山上へ逃げのぼってより親は子を呼び、子は親を尋ね、いずれが生死の程も分からず、その哀れなことは、筆にも言葉にも現しようがなかった。

 

 

 

(田井晴代訳「震潮記」)

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