震潮記(第8回)-震潮日々荒増之記:嘉永七年十一月五日(1854.12.25)

2008年9月12日

嘉永(かえい)七年十一月五日震潮日々あらましの記(その二)

 

暮れ方、大揺り一度、中揺り続いて二度、夜十時ごろ最も大きな揺りが一度あった。
  小揺りは愛宕山上でも、絶え間なく続き、人々は命が助かるだろうか、みんな死んでしまうのではないだろうかと、今にも津波が入って来て、溺死するような心地がして、不安で身も魂も落ち着かず、中には子を抱き、家内みんなが手を取り合って、神仏の加護を祈るばかりであった。

 

  すると、不思議なことに、どこからともなく、ほら貝が、かすかに聞こえてきた。なお、真心を込めて神々に祈り続けた。夜半から明け方になるまでに、中揺り八度、小揺りは休みなく三十七度であった。

 

 明くる六日になって、ようやく人々は無事の顔を見合わすことが出来たけれども、空の色も元に戻らず、前日と同様不気味な状態であった。
  この上は、どのような大変なことになるかと恐れ、愛宕山へ逃げのぼる人々、またまた日比原、尾崎村辺りまでもまた逃げ延びる人もあり、その騒ぎは大変なものであった。あびき(大波)は川まで入って来たが、特別変わったこともなく、前日より沖合は普段と変わることはなかった。

 

  しかし、下山する者も少なくなったので、だれが死亡したかどうかも分からず、また、前日よりの大変(だいへん)を役所へ注進する人もなく、ただ茫然として暮れていく。夜は月の光も平常とは異なっている。
  人々は食べ物もない上に、夜具などもなく、霜の夜中寒風にさらされながら、木の根などを枕にして横たわったが、眠ることも出来ず、少々ばかり持って来た米麦を分け合い、粥(かゆ)などを煮(た)き、ようやく命をつなぎながら神仏に祈るばかりであった。
  夜十時ごろになって、雨が少々降ったがすぐに晴れとなり、一昼夜に中揺り三度、小揺り十六度、合わせて十九度揺った。

 

 翌日の七日は、空、海面の色とも少しはよくなり、不安の中にも少々安堵(ど)の胸をなで下ろし、はじめて山を下りて、人々の安否などを聞き合わせ、家内一緒に集まることが出来た。
  自分の家の様子が、わずか一時の出来事に、こうまで荒れ果て、打ち変わったことを思い言葉にならない。

 

  南町筋や西町分は、五、六軒ばかりが潰れ家同然で残っただけで、そのほかは、両側とも一家も残らず流失した。
  本町筋、横町より浜、横町までの間、両側に七軒ばかりが残り、それより浜分の両側とも残らず流失した。本町西分、横町、鍛冶屋(かじや)町は潮に浸り傷み、あるいは半潰れになり、寺町、長屋町辺りは傷みも少なかったが、宍喰浦中で無難の家はわずか十一軒、いずれの町筋も流れた家や、その他の流れ物で通行しにくくて、流れた家の棟伝いに通行する状態で、本当に目も当てられない様子であった。
  この日、竹ヶ島、金目(かなめ)、那佐(なさ)、古目(こめ)などの様子を聞いて、ただ悲しみと驚きのほかはなかった。

 

  午後四時ごろ、山を下りた人々も山にのぼり、刻限を過ぎても誰一人下山する者はなかった。暮れ方より雨が降って来たので、ようやく薄べりや苫(とま=菅(すげ)や茅(かや)を菰(こも)のように編み、和船の上部や小家屋を覆うのに用いる)などで雨覆いをした。夜に入って小雨になり、後には曇り空になって朝を迎えた。

 

  昼は中揺り二度、小揺り十五度、夜は小揺り十二度、中揺り十二度あり、一番鶏(どり)が鳴いてから明け方まで中揺り三度、小揺り二度ぐらいで、この日は合計四十六度もあった。

 

翌九日になって、明け方は空は曇っていたが、午前八時ごろから晴れ、海面や太陽の光も次第に普通に立ち直ったので、人々は大変安心した。

 そこで、午前八時ごろよりみんなは山を下りて方々へ流れ散らばっている食物や諸品を拾い集め、衣類などを乾かし寒さをしのいだ。
 しかし、午後四時ごろからは、山を下りることを差し止めた。この日は一日中、中揺り二度、小揺り八度、合計十度の地震があった。

 

 翌十日は終日晴れたり曇ったりで、午前八時ごろより山を下り、人々は自分の家の流れ散らばった物をあちこち探し、尋ね歩いて、目印のある品は持ち主へ戻し、目印のない分は、自分と他人の区別なく拾い取り、大混乱となった。

  暮れ方に御郡代(おぐんだい=郡内を治める最高責任者)穂積茂兵衛(ほづみもへえ)様がお越しになられたが、宿泊する家がなく、ようやく忠平(ちゅうへい)、藤七(とうしち)の家を取り片付けて御宿とした。
  夜に入って大風が吹き、昼夜中揺り二度、小揺り十四度合わせて十六度あり、翌十一日は朝は曇っていたが、午前八時ごろよりはよい天気となった。
  この日、難儀している人々へは、当時救助として、宍喰浦の御蔵から玄米三石をお出しになられ、御蔵許(もと)で一斗(いっと)当たり銀札四分宛(ぎんさつしぶあて)のつき賃を合わせて下されることになった。

  そこで、愛宕山の南側の畑へ幕を張り巡らして、村役人、浦役人立ち合いの上で、一人前一合宛の割で日数五日の間、施し粥(かゆ)(炊き出し)を言い付けられた。
  また、この畑へ奥行一間半(二・七メートル)、桁行(けたゆき)十間(十八メートル)の御救小屋(おすくいごや=仮説住宅)を四ヵ所建てるよう言い付けられ、そのすべての費用をお下げ下さった。

 

御郡代は午前八時より竹ヶ島を御視察されて、午後四時ごろに宿にお帰りになった。このとき、地域の中で米を受けられないので、御蔵米をお願いしたところ、十七石下げ渡され、白米に仕立てて一升一匁(もんめ)で売り渡し、やっと難儀をしのぐことが出来た。

 

今日から自分の家の取り片付けをするよう命じられ、午前八時ごろから取りかかり、午後四時ごろに終わった。この日は昼夜小揺り十五度だけで大揺り中揺りもなかった。


(田井晴代訳「震潮記」)

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