震潮記(第9回)-震潮日々荒増之記:嘉永七年十一月五日(1854.12.25)

2008年9月19日

嘉永(かえい)七年十一月五日震潮日々あらましの記(その三)

  翌十二日は天気になったので、午前八時ごろより人々は取り片付けにかかったが、流散物が入り交じり、自分と他人の物との区別なく、見当たる品は取り入れて隠し、所々に争いの口論が絶えず、大混乱となった。この様子を聞いた役人は、一同を宿へ召し寄せて、目印のある物は持主へ渡し、また、分かりにくい物はそれぞれ所の役人(村役人)に預け、あとで取り調べてから引き渡すよう、じきじきに言い渡された。

 この取り締まりとして、下裁判(下調べの役人の裁き)のために魚御分一所(うおごぶいちしょ)や諸木御分一所(藩内の各河口・港などに設けてあった税関)の役人が巡回したから少しは穏やかになった。
 古目の御番所御仮小屋(おばんしょおかりごや)は四方とも板造り、一間に一間半(三畳)の造りで、早朝から午後四時までに土地の大工総造りで出来上がった。

 

  この日昼夜小揺り十四度だけで、翌十三日は天気が穏やかであったが寒さ厳しく、午前九時ごろ、町内を再び視察された。この日は昼は小揺り六、七度、夜四、五度ばかりであった。

 

  翌日の十四日はよい天気で午前八時ごろ、御郡代様はお帰りになり、あちこち避難していた者も御救小屋へ移ったり、また、自宅のある者は立ち戻り、または小屋掛けに取りかかるなど大変混雑した。この日は昼夜小揺り四度、中揺り一度だけであった。翌十五日の日中は地震は一向に起こらなかったが、夜に入り、中揺り三度、小揺り二度起こり、夜中、鴉(からす)は樹を離れてあちこち飛び立ち、鳴き声が明け方まで止まなかった。

 

翌十六日は曇天で午前八時ごろより小雨となる。この時刻、小揺り一度あったが、午後四時ごろより晴れる。

 

御救米(おすくいまい=救護米)六十石を橘(たちばな)浦より御積み込み、当地へ回された。

 

昼ごろ小揺りが続いて三度あり、午後四時ごろ小揺り一度、暮れ方に中揺りが続いて三度、小揺り四度、月の出るころ空は格別赤く、またまた潮が入って来る様子であると人々は言いふらし大騒ぎとなり、急いで愛宕山へ逃げのぼったが、幸い何の変わったこともなかった。

 

この夜は宍喰に限らず、どこでも同じような騒ぎであった。このことを後で聞いて、明け方になって逃げていた人々もみんな下山した。この日全部で七度であった。

 

翌十七日は天気で、流失した網舟や漁具を取り調べるため、御手代衆(おてだいしゅう=郡代の補佐をする役人)が出張して来られた。午後五時ごろより中揺り一度、小揺り一度、暮れ方よりまたまた潮が入ってくると口々に言って回り、諸物を持って愛宕山や祇園山などへ逃げ散り、大騒ぎとなった。

 

夜十時ごろ、浦御奉行(海部(かいふ)郡鞆(とも)浦につとめた役人)、御手代衆が急いでお越しになった。夜半過ぎ中揺り一度だけで明け方まで何の変わったこともなかったので、人々はおいおい帰ってきた。

翌十八日は天気よく、朝八時ごろ宍喰浦、久保、古目(こめ)、那佐(なさ)、金目(かなめ)、竹ヶ島地域の被災して困っている人々に、御救米として一日一人に三合宛、日数にして二十日間を渡され、これを配分した。

 

この日昼は小揺り四度、中揺り二度、暮れ方から、またまた津波が来ると言って大騒ぎとなり、諸方へ逃げたが、何の変わったこともなく、明け方になって一同は山を下りた。


 

(田井晴代訳「震潮記」)

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