震潮記(第13回)-震潮日々荒増之記:嘉永七年十一月五日(1854.12.25)

2008年10月17日

嘉永(かえい)七年十一月五日震潮日々あらましの記(その七)

 

九月二十八日午後六時、中揺り一度あった。もっともこの地震は、徳島や大阪辺りは大揺りであったようである。十月四日一番鶏ごろ、中揺り一度あり、五日は曇天で終日沖合が鳴り、それより二十日ごろまでも二日に一度、五日に一度ぐらい小揺りがあった。

  二十三日は小揺り一日に五、六度あった。
  また、地震の節は、地面が二尺(約六十センチ)ばかり下がったのか、満潮は平年より二、三尺(約六十~九十センチ)ばかり高かった。

  昨年の冬より九月の初めごろまでは、井戸水が塩気を含み、すべて川水だけを用いた。また、時としては塩気がなくなることがあっても、地震がしばしばあるとまたまた塩気があり、その後は使い水には出来難く、井戸を掘り直しても同様塩気があった。

  また、二十七日夜、二時ごろ中揺り一度また五、六日ばかりは地震がなく、一日に一、二度あり、そのうち空が曇ると度々あり、また波立ちもあった。既に六月二十二日、浅川、牟岐(むぎ)辺りは、波が町筋に乗ってきて、小屋がけなどを倒し、堤も切れ、破損もあった。中でも浅川の海老(えび)ヶ池などは、この春普請した堤や波止めなどが残らず崩壊した。田地も一面海底になった。

  また、土佐(高知)なども同様のようで、甲浦なども庭先へ波が来たようである。この所は平素の高波くらいであった。

  この度の異変を考え合わすと、昨年の春ごろより、西南の方に当たり、大砲の音のように折々鳴り、冬にはその音がひん繁になった。しかしながら、その時は相州(神奈川)浦賀(横須賀)表(おもて)へアメリカ船渡来の後ゆえ、諸国とも大砲打ちを盛んに行っていた折柄であったから、土佐にても専ら大砲の稽古(けいこ)をしているのであろうと何の気も付かずにいたが、そうではなく地震中にもしばしば鳴り、五月ごろまでは日によっては一日に幾度ということなく聞こえ、また折々地鳴りのように響き、今になっても鳴り止まなかった。

  昨年旧十一月一日正午過ぎ、日の光がしばらく地に輝きまばゆく、その夜北東の方から南西の方へ向かい白気(しらけ=自然現象で白くぼうっとしたもの)が立ち、三日四日の夜半、東の海空の赤いこと夕焼けのようであった。これが夜半より明け方までさめなかった。

  また、旧五月ごろから家々に毛虫が多くわき、奥浦、大里、牟岐辺りは特別に多かった。しかし当地はこのようなことはなく、甲浦、白浜辺りにも少々あったようである。

  諸国はどうであったか、紀州(和歌山)淡州(淡路)などにも専ら発生したとのことである。
  そのころ、牟岐東浦辺りには、実の入った小貝が軒先に集まってきたが、日がたつと一向に見えなくなった。

  また、秋の暮れに傘のような異様な気が毎夜立ち、晴れた夜は色薄く、曇天には色濃く、そのほか諸方に珍しいこと、不思議なことが起こることも、この度の大変時の前触れでもあるのであろうか。十一月一日よりのあらましを聞き取ったまま書き記しておく。


(田井晴代訳「震潮記」)

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