震潮記(第14回)-震潮日々荒増之記:嘉永七年十一月五日(1854.12.25)

2008年10月24日

震潮記(第14回)-震潮日々荒増之記:嘉永七年十一月五日(1854.12.25)
嘉永(かえい)七年十一月五日震潮日々あらましの記(その八)

  この度の大地震、津波については、藩の家老稲田九郎兵衛(いなだくろうべえ)様、賀島出雲(かしまいずも)様両御大夫の御屋敷が御焼失並びに徳島の新シ町、通町、紙屋町、紀の国町、魚の棚、そのほか島々大小の焼失、潰(つぶ)れ家なども出来、小松島などは人家八分通りくらいも焼失した。

  そのほか北方筋の所によっては田畑は白砂を吹き出し、また泥水を吹き上げ、土地によっては地面二尺より三尺(約三十~九十センチ)ばかりも裂け、深さは計り知れない程である。

  また、地面も揺り下げ、いずれも山野に住居すること数日、しかしながら南方筋とは違って津波の傷みもなく、死人も数なく、また、那賀郡の塩浜は残らず潰れ、海となり、そのほか所々堤切れ、田畑は多くの被害が出て、その損失は膨(ぼう)大である。海部郡の潰れ傷みのあらましは、左記のとおりである。

一、総家数     二百七十一軒      宍喰浦分
    内      百四十一軒  流失
             十五軒  潰れ家
             二十軒  右同じ
             八十軒  潮入り傷み家
    残        十一軒  無難
一、総人数      千五十五人
一、流死人         八人
    内         五人 男(このうち一人、出生不明者)
              三人 女
  流死人   伝之助祖父  実右衛門  八十歳
         豊之亟親   久之亟  六十三歳
         文兵衛二男伜(せがれ)貞吉 七歳
         徳之亟二男伜 徳太郎    二歳
         同人妻    た い  三十七歳
         弥三兵衛妻  て る  二十四歳
         政七姉    し も  七十三歳
一、土 蔵       十四ヵ所
    内        二ヵ所  流失
    同        八ヵ所  潮入り傷み
    同        二ヵ所  潰れ込み同じ
    〆(しめて=計)  二ヵ所  無難
一、総納屋       七十二軒
    内       三十二軒  流失
    同         二軒  潰れ込み
    同         二軒  右に同じ
    〆        五ヵ所  流失
一、堂 宮(どうみや)   五ヵ所  流失
             蛭子(えびす)堂  住吉社
             古目大師堂  浜大師堂
             那佐大師堂
一、廻 船         八艘
    内         一艘  大破
     但二百石積
    〆         七艘  無難
     但三十石積より三百石積まで
一、総漁船数      四十五艘
    内         九艘  流失
    同        十五艘  大破
    同         七艘  小破
    同        十四艘  無難
     ほかに漁具材多く流失。別記にある。

一、総家数        五十軒      竹ヶ島
    内         二軒  流失
    同         一軒  潰れ家
    同       三十七軒  潮入り傷み家
    〆         十軒  無難
一、総人数      百四十七人
一、総漁船数       二十艘
    内         五艘  流失
    同         二艘  大破
    同         四艘  小破
    〆         九艘  無難
一、総家数       二十二軒      那佐村
    内         四軒  流失
    同         一軒  潰れ家
    同        十二軒  潮入り傷み
    〆         五軒  無難
一、総人数       九十七人

一、総人家         三軒  流失  古目

一、総人家         三軒      金目
    内         一軒  流失
    同         一軒  潰れ家同じ
    同         一軒  潮入り傷み
一、総人数        二十人

一、総人家       四十九軒      久保村
    内         四軒  潰れ家
    同         三軒  右に同じ
    同        十七軒  潮入り傷み

一、流れ家     三百二十一軒      浅川村浦分
一、潰れ家         三軒
一、流れ土蔵      十六ヵ所
一、死 人         二人 男
一、流失漁舟      三十八艘
一、傷み漁船        十艘
一、流失廻船        一艘
一、傷み廻船        二艘
一、流失高瀬舟       二艘

もっとも浦中にて残ったのは寺院三ヵ寺、庵一ヵ所、社一ヵ所、そのほかは一軒も残らず流失。

一、流れ家     六百四十六軒   西牟岐・中村・内妻共
一、潰れ家       三十四軒
一、潮入り家      八十四軒
一、流失土蔵     二十四ヵ所
一、流れ納屋馬屋共  百六十七軒
一、流失漁船     百四十二艘
一、傷み漁舟      四十一艘
一、流失廻船      四十一艘
一、傷み廻船        五艘
一、流失高瀬船       九艘
一、諸流失網    九百九十四反
一、諸傷み網    二十三貼三部
一、社流失        四ヵ所
一、死人        二十三人
    内        十五人 男
    同         八人 女

一、流れ家       二百四軒  西由岐浦
一、同         三十一軒  同村
一、同         二百十軒  木岐浦
一、同           五軒  志和岐浦
一、同        百二十一軒  東由岐浦
一、同          二十軒  田井村
一、潰れ家         五軒  同村
一、流 死  右村浦にて 十五人

一、日和佐などは往還渡しの上、岸の上一尺(約三十センチ)ばかり潮が乗り、浜手の低い人家は塩入りになったが、流れ家などはなく、もっとも薬師前木場辺り並びに北河内(きたごうち)村までも潮が来たような状態だから、舟、漁具材などを損じ、田地は荒れる、恵比寿浜などは四日、五日とも潮の異変があったが格別のこともなく、鞆浦の低い町筋は潮が入り、高い町筋は潮は来なくて、川筋の人家は座上二尺(約六十センチ)あるいは三尺(約九十センチ)くらいの潮先で、高園(たかぞの)村、母川(ははがわ)半ばまで漁舟、廻船が脇宮(わきのみや)前辺りへ多く流れて来て、漁具、舟ともに流失した。

しかしながら、家は一軒も流れなかった。格別目に立つほどの傷み家もなく、まずまず無難であった。


(田井晴代訳「震潮記」)

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