震潮記(第16回)-震潮日々荒増之記:嘉永七年十一月五日(1854.12.25)

2008年11月7日

 嘉永(かえい)七年十一月五日震潮日々あらましの記(その十)

  三月下旬のころより四月上旬のころまでは少々緩み、一日に十二、三度ぐらいに平均したそうで、四月二十四日の地震では、城下近村潰れ家など出来たということを聞いた。

 そのころより地震のない日とてはまれまれのところ、六月二十二日大潮で、和食(わくい)浦の稲が大変傷み、もっとも甲浦より本道十八里(約七十二キロ)の所、同日の大潮に赤岡町の橋より八丁(約八百八十メートル)ほどの間、堤が崩れ三日の間船で渡し、地面千石ほどの所が一面の潮込みで、同日の大潮に五台山(ごだいさん)の辺り、堤五丁(五百五十メートル)ばかりが潮に打ち崩れ、御城下辺りまでも潮にて大変傷み、御城下唐人(とうじん)町分、同日の潮に真如(しんにょ)寺橋の上まで大潮が入り込んで持ちこたえられず、通行が出来なくて御城の御門の上にまで潮が来た。

  御家来の住む本町通りより北手の方へ潮が入って来る様子、また、三日の間地震が昼夜とも八、九度、六月末日までに大揺り九度、六月末日より七月一日、二日、三日の間、日数四日のうち大震四度、中震十二度、小揺り五十度ほどで、その筋の潮の異常は昨十一月五日よりは二尺(約六十センチ)くらいも高い方でまた、人家の傷みなどは格別もないそうで、高知より三里(約十二キロ)ほど南へ宇佐、福島、同所より九里(約三十六キロ)ほどの所須崎、同所より十里(約四十キロ)ばかりの間は、前と同じ姿であった。

  すでに宇佐、福島などは人家千軒ばかりもある所であるが、この冬の津波に家が多く流れてしまい、少々残った家のうち、その上またまたこのようで、そのほか下土佐(しもとさ)も広く大きな傷みのようで、昨冬の大変について、往還道筋また宿々などは、このような状態で大いに傷み、四国遍路などはまず三ヵ年ばかりは通行が差し止めになり、今でも同様の通行止めである。

  伊予(愛媛)、讃岐(香川)、九州路、中国筋などは、格別大地震というほどのこともない様子、また、津波の傷みなどはすべてないように伝え聞いた。

  また、九月二十八日午後六時の地震では、この辺りは格段大揺りということもないけれども、上方筋(近畿地方)、徳島辺りは大震で、その折上難(かみなだ)筋浦々(由岐、日和佐、牟岐)によっては、少々潮の異常もあったので、大いに心配した様子であった。

  なおまた、十月二日夜八時ごろの地震は、この辺りでは続いて両三度ばかりの小震のところ、江戸(東京)は大地震で潰れ家などより出火し、所々より燃え上がり、時々の大震につき防ぎようもなく、ただ先へ先へと焼けていき、ついに大火となり、火中または潰れ家に打たれ、人々の泣き苦しむ声、目も当てられぬばかりで、万をもって一つに数えるほどの死人で、前代未聞の大変とのことであった。

  この江戸(東京)の取沙汰(とりざた)を聞く度、毎々驚くばかりで、同日々の地震に相州(神奈川)、防州(房州・千葉ヵ)、上総(かずさ=千葉)辺りはとりわけ大傷みで、昨冬の地震を逃れ、当年またこのようにいずれ天変の巡りは避け難く、またまた昨冬の地震では五畿内(きない=奈良、京都、大阪、兵庫)方面は、一昨年の六月十四日夜の地震より、余程小さい様子、その節この辺りは、夜半のころ中震一度、明け方小揺り続いて五、六度までで、その後は一向になかった。
  その節五畿内筋は大震で、昨年九月ごろまでは折々地震があった様子である。

  当所旧年の筆記にも七、八年または、十年ばかりは、やはり揺っていたが、この度も同様の有り様であったのであろうか。

  旧年よりの筆記を考え合わせてみると、百年の年月を重ねた時には、このような大天災に見舞われるものなのか。

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