震潮記(第17回)-震潮日々荒増之記:嘉永七年十一月五日(1854.12.25)

2008年11月14日

嘉永(かえい)七年十一月五日震潮日々あらましの記(その十一)


  既に、永正の震潮より慶長のころまで九十六年、同歴のころより宝永のころまで百四年、同歴のころより昨冬の嘉永七年まで百四十八年、またも百年の年月を経たならば、このような大変時も起きるかも分からず、旧年の筆記にも後年心得のために書き記しておいたが、年月を重ねまた数代を経たことだから、たまたま旧記を読み、見ていたが、このような大変事がいつの時にか起きるかと、風の吹くように昔語りにしていたところ、図らずもこの度の大変事に旧記を眼前に見て、その時の人々の悲しみ、苦しみの程が今更のように思いやられた。

  旧年の書記にもあるように、また、そのころよりの申し伝えにも、その日はことに晴れやかな天気で、わずかな雲も風もない。月の光は四、五分欠けて日食のようである。海面などは穏やかで、磯に打ち寄せる波もなく、ただ畳を敷いたようであり、色合いも常と違って、その上静かで諸鳥の声も聞かなかったという。

  この度の大変事も同様の姿で、何の変わったこともなかった。雀や鶏などは前日より鳴かず、ただ物静かで異様であった。空の色も海面も前と同様であった。
  後年このような模様になれば変事があると思って、少しでも早く手近な山の上へ逃げのぼり、その難を避けるようにすることが大切である。

  その時になっては、何一つ持っては逃げられない。川筋などは地震の最中に、はや逆波が来て、また、地面は水を吹きあげ魂も消え入るばかりである。一足遅れたために波に引かれ、大難を受けた者も少なくない。

  親子兄弟であってもひとつ所にいない者は、助かる見込みもなく、ようやく一命を辛うじて助かる状態である。必ず油断して死んではならない。逃げ足の遅い時は必ず命が助かることが難しく、このような時に及んでよく心が迷い、逃げ足の遅い者と舟に乗る者とは多分死亡する。この二つの大事を忘れてはならない。この度も既に諸方において、多くの死者を出している。

  また、津波は大海より押し寄せるものではない。浅川浦などは大島、出羽(てば)島の間に小山のようなものが出来て、押し寄せて来たようである。
  宍喰浦なども乳(ち)の崎の沖合いに山のような海の階段が突き出て、そこから平押しに入って来た。その急速なことは矢を射るよりも速かった。

  また、上難筋は大地震より続いて大雷のように、どこからともなく鳴り、それより大潮が押し寄せて来たようである。いずれの地も陸に近い所より、高波が出来て、そこから押し寄せて来るそうで、このような時も大海から押し寄せて来るものではない。既に、手船などはこの日、兵庫(神戸)表を出帆して大洋を航行していたが、一向に潮の異常の様子もなく、無難に帰船した。

  また、当所港より地震の少し前に出帆の船から聞いたことは、地震は感じたが、潮の異常は無く、こちらへ大潮が押し寄せるのを沖からかすかに見受けたものである。この度も前と同様に、空の色が海面と同様になったが、こんなところに気付かず、前日から逃げていた者もおいおい立ち戻った。

  また、所持品も少しずつ山上へ持ち運んでいた品は、自分の家へ持ち運び、少しもこんなことに気付かず、その時になって身の置きどころもないほど慌てて、親子も別れ別れに逃げ去り、三日または四、五日も無事の顔を見合わすことも出来ず、生死の程も分からず、その間の心配は何に例えようもなかった。

  大地震の節は、いずれ大なり小なり潮の異常はあるものだから、必ず油断してはならない。また、津波は緩やかに押し来るものではなく、両三度も急速に押し寄せるものだから、必ず油断すべきことではない。少しでも早く高い所に逃げのぼり、退避するに越したことはない。

  この所では三度の津波とも愛宕山へ逃げのぼり、命が助かった者も少なくなかった。誠に、この山は助命山(じょめいざん)である。
  しかし、このような大変の節は、愛宕山も海底になるように思って、祇園、八幡神社の山上へ逃げる者もあったが、老いた人や幼い者や病人はなかなか難しく、四つ辻から先は波の来ることが町筋よりも早い。また、波を横に受けることになるから、足の遅い人は助かるのは難しい。

  また、愛宕山が波の底になるほどの高潮であれば、祇園、八幡山上といえども無難とはいえない。このような時は、遠い所へ行くよりは、手近な所へ立ち退くことが大切である。

  後々の心得のためにもなろうかと、この度の大変事、並びに諸方から聞いたことなどあらましを翌安政二年(一八五五)十一月五日、田井税伯書き記す。

                 この時の海部那賀御郡代
                         高 木 真 蔵 様
                         穂 積 茂兵衛 様
                         森   五兵衛 様
                 翌年(一八五五)十二月
                  御役替(おやくがえ)になり、その後左の通り
                      右 同
                         浅 田 久米之丞様
                         森   五兵衛 様
                         尾 西 右 平 様


 

(田井晴代訳「震潮記」)

お問い合わせ

防災人材育成センター
啓発担当
電話:088-683-2100