震潮記(第18回:最終回)-震潮日々荒増之記:嘉永七年十一月五日(1854.12.25)

2008年11月21日

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宍喰浦荒図面(部分)

嘉永(かえい)七年十一月五日震潮日々あらましの記(その十二)
十一月以来の模様あらまし左の通り


  地震も小揺りだけで少なくなり、また、満潮なども平素より二尺(約六十センチ)ばかり高くなったが、それも次第に立ち直り、先の高潮前の状態になった。

 また、時々漁もあり、当年分は取り揚げ漁の銀高は銀札で、およそ二百貫目ぐらいであった。その上、米麦の値段も次第に下がり、地売相場で通銭一匁につき、白米一升麦一升五合ぐらい、このような状態であったから、人々の気持ちも大変平和になり、自分で家を建てる者もおいおい出て来た。

  なおまた、波の囲いとして十ヵ年の間に一戸より、一ヵ年に十本宛植え付けを命じたため、翌年の正月中旬に初めて戎堂(えびすどう)より北手の浜崎へ数本、一日に植え付けを行った。

  また、麦作も植え付けころよりよい天気が続き、潮入りの場所は肥など用いなかったが、殊の外出来柄がよかった。近年の作柄一反に二石四斗ぐらいから四石ぐらいもあった。その他の地方もまず出来栄えはよい方であった。

  また、三月二日、地震津波で名古屋辺りが大被害があったようである。
  そのころ、当地も小震が続いて二度ばかりあり、それよりまれに小揺りがあった。
  八月二十五日、江戸は暴風で居宅なども吹き倒れ、高潮で所々家が流れたそうである。また、東北辺りは大災害と伝えられた。

 しかし、この辺りは無事で、稲作なども相当な出来栄えであった。潮入りの田地の分は、ことに出来がよかった。その上、鰹(かつお)漁は打ち続いて漁があり、震潮よりわずか三ヵ年ばかりであったが、前にあげた状態であった。かえって震潮前より少しは暮らしやすい状態となった。つまり、文政の年度(一八一八~一八二九)以来の落ち着いた時節柄となった。

  また、漁師、漁商人の流れた家、潰れた家、浸水などの被害を受けた家の取り調べもだんだん進み、左の通り浦々へ家を建てるためのお金を下さった。

  また、漁商人は二十ヵ年賦(年払い)返上で、一人につき銀札二百三十目宛借りることが出来た。
  漁師の分は、漁頭の流れ家へ銀札四百目、中漁頭流れ家に三百目、同潰れ家に二百三十目、同傷み家に二百目、小漁師流れ家に二百三十目、潰れ家に百目、傷み家に八十目、浦々漁師建家料を下さる額

一、銀札  十九貫七百六十目  東由岐浦
一、同  三十三貫五百三十目  西由岐浦
一、同  三十七貫五百二十目  木岐浦
一、同  三十三貫 百三十目  西牟岐浦
一、同   九十貫 百三十目  東牟岐浦
一、同    七貫八百六十目  出羽島
一、同  二十七貫  六十目  宍喰浦

 

     漁師建家引除
      浦御奉行
         伊 沢 速 蔵 様
         三 木 林 平 様
     右同御帳元役
      御鉄砲
         富 沢 源兵衛 様
         山 本 祖之亟 様

 

  漁師、魚商のほか、流れ家並びに潰れ家になり、困窮の者達へ銀札百目宛、もっともこのうち五十目は下さり、捨り銭(すてりぜに=元金に算入しない利子)五十目は救助銀のうちをもって充てられ、二十ヵ年賦(年払い)になさった。


   宍喰浦処々高潮の計

古目御番所床にて           一丈六尺五寸(約五メートル)
同所大師堂前にて           一丈八尺(約五・四メートル)
那佐大師堂前にて           一丈五寸(約三メートル)
祇園拝殿               内庭まで
八幡石段               二つ目まで
愛宕山南手上がり口          石段二つ目まで
同所北手上がり口           無潮
正田薬師森より一丁(約百十メートル)ばかり 下手まで
古港の辺りにて            一丈五寸(約三メートル)
港口の辺りにて            二丈三尺余(約七メートル)
鈴ヶ峰桜のもと            丁石の辺まで


(田井晴代訳「震潮記」)


(注)
 宍喰浦荒図面(部分)の色分けは次のとおり
 黄色  潮入家
 赤色  無難家
 藍色  流家
 黄色、藍色混色  潰家、潰潰家に同じ

 

 

【参考サイト】

防災徳島ポッドキャスト(第6回「先人からの遺訓-震潮記:前編)

防災徳島ポッドキャスト(第7回「先人からの遺訓-震潮記:後編)

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