海が吠えた日 第44回 「その時私は!! 」六十代 男性

2011年6月14日

今も残る昔の石積み
今も残る昔の石積み

私の家は代々海産物加工業を営んでおり、仕事の便宜上、昭和十七年ごろから母屋から浜の加工場の方に家族全員が移り住んでおりました。

昭和十九年八月に父が海軍に召集され、二十年に大阪で戦災に遭ったS叔母が、続いて和歌山市で戦災に遭った叔母(Yと子供二人)が帰郷し、総勢十二名が一緒に生活をしていた。母屋には昭和二十年秋海軍より復員して来たM叔父とその家族が住んでいた。

 南海道地震のあった昭和二十一年、私は一年遅れで県立海部中学校(現日和佐高校)に入学し、戦後の混乱の中を汽車通学していた。

 十二月二十一日午前四時ごろ、小用に起きた私は見るともなく沖を眺めた。スルメイカを釣る漁火が水平線いっぱいに連なり、浜辺に寄せる波は快い音を響かせていた。当日二階には私と祖母、S叔母とYの家族が、階下には母と四人の弟妹が就寝していた。再び二階に戻った私はもう一眠りしようと布団にもぐり込んだ。その時であった。

 ゴーという地鳴りと共に大地震が起きた。それは未だかつて経験したことのないものすごい揺れでありました。天井から吊された電灯が天井に二~三回打ちつけられたとと思った途端に灯が消えて暗闇となった。最初には「世直し世直し」と唱えていた祖母は「これはどうしたんな。これはどうしたんな。もう堪えてくれ」と泣き声になっていた。

どのくらい続いたであろうか。大きく烈しくすごく長く感じた。階下の母と弟妹たちはすぐに浜に飛び出した。二階ではS叔母が地震の揺れの最中に「早う逃げんと怖い」と言って階段の途中から落ちてすり傷をつくった。二階にあった箪笥鏡台等の家具類はことごとく倒れてしまったが、それでも幸い全員に怪我は無かった。

ようやく揺れが止んだ。津波が来るかも知れない。衣服を着けるべくマッチを探したが気が動転してか見つからない。服は箪笥の下敷になっていたので、それを持ち上げようとしたが重くてどうすることもできない。

 浜に逃れた母らはSのおば(父の従妹で平滝の納屋に住居していた)とその家族に逢い地震のすさまじさを話していた。「潮が来よるぞー、早う逃げえよう!!」とタンガの方からの叫び声に、母は弟妹たちを連れSの家族らと「おまいら、早う逃げよう。津波ぜ。津波が来よる言よるぜ。おたいら、先に逃げるけん。早う逃げよう」と言い残して家を後にした。

Sのおばは逃げる途中、何か食料品でも持って来なければと家に引き返したが、二人の子供は母らと共に逃げた。母は母屋の叔父家族に津波の襲来を告げ、昌寿寺山に逃げるべくF鉄工所の露地に入ったが、行く人帰る人でどうすることもできない。やっとの思いで引ぎ返し杉王神社へ一目散に逃げた。

 私たちもぐずぐずしておれないと家を出て前のTさん宅までくると、町は避難する人々でごった返しているが、Oさんが「津波ってほない早う来るもんじゃない。わしが沖を見てくる」と平滝の加工場(現泉源第二加工場)の方へ曲った途端「早う逃げえ!潮が来よる」叫びながら引返して来た。

いっしょに二階から降りてきたはずの祖母らの姿が見えない。しばらくためらっていると「Sちゃん早う逃げんけ。おばあさんには叔母さんらがついとる。早う早う」とのことで一団を作り、八坂橋のうえを目指して逃げる。

 八坂橋の辺りまで来ると後から数台の大八車を引いて走るような音がする。橋の下の水は異様な音を立て逆流していた。これはみんな津波が侵入する際の潮の音だった。Hさん宅の前まで来たとき、町の方でものすごい音と共に津波の襲来である。

「助けてくれー。イヤー。助けて!!」それはまさしく修羅の声であるが、どうしてやることもできない。やれやれ無事に助かったと思った途端、急に寒さが身にしみてきた。そのはずである。

着用している物は素肌の上に絣の袷の寝間着一枚で素足に藁草履の姿である。また家族の安否が気になって仕方がない。祖母は、叔母は、従兄弟らは無事に逃げたであろうか、母や弟妹たちは?。ふと気がつくとWさん宅の前まで来ていた。大勢の人達といっしょにWさん宅に上げてもらい囲炉で火を焚いていただき暖を取った。

 一方祖母や叔母達は杉王神社に逃げたが、S叔母は途中で米を取って来ると言って引き返し潮に流される。M叔父は家族を先に避難させて自分は引き返し、先祖の位牌を持って八坂橋を目指したが、時すでに遅くKさん宅(現K邸)の前で潮に遭い、K宅の槙の木によじ登り難を免れた。

第一波の潮が引いて「助けて、助けて!!」の声に近寄って見ると、S叔母が大きな流木に狭まれ身動きができずにいるところを、Hさん宅横で運良く助け上げられた。同様に食料を取りに帰ったSのおばはNさん宅の横まで流され、この時の怪我が元で病気となり後年亡くなった。

 夜が明けて帰途についたが八坂橋の欄干が完全に流失しており、大谷の田圃には流失した家の残骸や小舟などが見え、西念寺の境内には流失した家財等で瓦礫の山と化していた。もちろん国道は塞がれ折重った全壊の屋根の上を伝いながら帰る。

K宅の前から海の方を見ると、まるでバリケードを築いた様に家や納屋が圧縮され行く手を遮っており、無惨とも何とも言いようのない光景であった。Hさん、Hさん宅は半壊し、Sさん宅は流失して跡形もなく羽里の隣にあった平滝と共同の倉庫も流失していた。Tさん、Oさん、西漁協旧事務所(現西浦会館)等も悲惨極まる姿となっていた。

 私方はアマ納屋(鰹節を製造するため火を燻す建物)だけはなぜか無傷で残ったが他は全部壊され、私たちの寝起していた二階は落下し傾いていた。狂っていた潮も次第に落ち着くころ、母や叔父叔母達が帰り喜びも束の間、すぐに大掃除に取掛ったが余震にたびたび驚かされた。

 昼近くMのおじさん夫婦が食料品を携え見舞に訪れ非常に嬉しかった。余震や潮の心配で、その夜は杉王神社の通夜堂で泊らせていただき、翌二十二日から一週間ほど一族全員がMさん宅でお世話になり、なおも続く余震におびえながらも後片付に励んだものだった。

◆「海が吠えた日」は、牟岐町においてまとめられた「南海道地震津波の記録」です。
 詳しくは、牟岐町ホームページをご覧ください。

【参考サイト】
牟岐町ホームページ

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