海が吠えた日 第43回 「あの日の恐怖」 六十代 女性

2011年6月7日

ゴゥーとものすごい音に安眠の夢を破られ飛び起きた。しかし上下動の揺れにどうすることもできず不安を募らせること数分、やがて揺れは止まった。外で近所のSさんが「浜に逃げよ」と叫んでいたので咄嗟に浜へ逃げた。

 祖父が「津波が来るか分からん。見てこい」と若者に伝えた。すると浜の方向からガラガラと空缶を転がすような音と共に津波が押し寄せて来た。

あわてて家に帰るも障子や襖が倒れており、家に入ることがことができない。そのうちに西の方から潮が真っ白に込んで来た。足を濡らしながらも、妹を背負い弟の手を引いて昌寿寺山めざして一目散に逃げた。

 昌寿寺山登り口では避難の人々でごった返しており、皆がわれ先にと山に登っている。私は前の人の背中にしがみつき、弟の手を引いてかけ登った。

 頂上では人が溢れ、休む場所もないくらいだった。下の田圃では「助けてくれ!」と悲鳴が聞えてくるがどうすることもできない。ただ等閉視するのみであった。寒くて震えているとKさんが「これ着いとり」と言って毛布を二枚貸してくれ、家族がくるまって暖を取り合いました。夜が明けてから家を見にもどったが、我が家は跡形もなく流失しHさんの二階が居座っていた。私は涙が出てとまらなかった。

 父は私が十四歳の時に他界しており、祖父、母、弟妹の五名で、どうしたらよいか路頭に迷う感が頭を過る。前夜勤務から帰り、正月の晴着に作った着物を長押に掛けてあったが、今はどうなったのか。娘十八の私には耐え難い悲しみであった。

昼近くになって昌寿寺で炊き出しがあると知らされ、ようやく腹をつくることができ、明日からの希望も生まれて来た。しかし今夜から泊る所も無く、山頂で二日間野宿の生活を余儀なくされた。

 三日目から親戚の宅で泊めていただくことができた。親戚の方々が応急住宅を建てて下さり、家族一同が雨露をしのぐことができ、泣くほど嬉しうございました。

救援物資として旧軍服や毛布等の配給を受け、更生して着用し暖を取る生活が始まった。こうして徐々に復旧して行くことになった。

◆「海が吠えた日」は、牟岐町においてまとめられた「南海道地震津波の記録」です。
 詳しくは、牟岐町ホームページをご覧ください。
 
【参考サイト】
牟岐町ホームページ

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昌寿寺山

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