海が吠えた日 第40回 「津波の思い出」 六十代 男性

2011年5月17日

つぶれた享楽座の屋根の上に小舟が上がっている
つぶれた享楽座の屋根の上に

小舟が上がっている

 私はあの当時、復員船に乗船しており、船の改造のため、休暇を取り実家の鯖瀬に帰省していた、十二月二十日、田圃で麦の草抜きを手伝っていると、西の山に奇妙な色の雲があり、いやだなあと家族で話したことを覚えている。

 晩秋の日はつるべ落しのように暮れて行った。あの年はスルメイカが良く釣れた。福良から伝馬舟に乗り沖へ出たが、ことのほか今夜はよく釣れ九時過ぎに家に帰る。

 母から牛が産気づいていることを聞かされた。父は牟岐町灘の叔父(T)宅へ行き不在であった。兄と二人で牛のお産を手伝う、初めての体験で牛のお産は軽いのだなあと思いながら二階に上り寝ることとした。

 三十分も寝ただろうか?「ゴウー」と大きな地鳴りと共に大地震だ。立つこともできず這いながら階段をつかまえに行く、数分で揺れ止んだので二階から降りて来て庭に出る。またも余震がある、時計を見ると四時十九分で止まっていた。

 前方の鯖大師さんでは、昨日から高野山より高僧が大勢来て八坂寺と改称の行事を行うため宿泊していたが、この大地震で騒いでいる。兄は何をするにも腹ごしらえが大事やと、いろりで火を焚く、そばには万一のためにと摺鉢とバヶツに水を入れておいた。

 そのころは食塩が乏しく浜で塩炊きをしていたF氏が、鯖瀬橋の上から「オーイ津波が来るぞー」と大声で知らせてくれる。突然浜の方が騒々しくなった。

 さあ大変!!いろりの火に摺鉢をかぶせた。納屋に行ぎ今しがた出産したばかりの子牛と親牛を避難させねばならない。兄は親牛、私は子牛を抱えるようにして裏の木納屋へ避難させる。

 そのうちに東の方が明るくなってきた。浜では昭和九年室戸台風時よりも潮位は低くたいした被害もなく、良かったなあと海辺に出てみると、大変だ。見る見るうちに牟岐方面から浮流物が海面が見えないほど流れて来た。

これでは牟岐も大変だろうと話しているうちに家屋の一部分と思われる部分が漂着する。畳の上に布団を敷いたまま、ローソク・マッチが散乱し、柱にジャンパーが掛っていて、「M」とネームがついている。当時の慌ただしさを思わせる光景だ。早速若者たちで浜に引き上げた。

 浅川の町は全滅だと誰かがいう。それじゃ応援に行かねばと、皆が走る。大砂まで来ると、浜は浮流物の山、家、家財道具類。その間に二~三の死体も発見し、菰や莚を掛けて行く。

粟の浦まで来ると粟の浦橋は流失し、その先の国道や造船所は河原と化していた。T氏宅の下で川を渡り伊勢出下まで行く、国道は跡形もなく所々で大きな渕が出来ていた。伊勢田橋も橋桁が一部移動しており潮の力の強さを表していた。川幅が広く渡ることもできないので後髪を引かれる思いで引返した。

 九時前に家に帰ると父が帰って来た。父の話では牟岐町灘の叔父(T)宅前の田圃には流失した家や舟、家財道具が山のように漂着したという。父は市宇谷へ降り川長から牟岐橋を渡り関、清水から中村、百々原を越え奥内妻、古江を経て帰って来たが自転車に乗れる所がない程道路に亀裂があったという。

 中河原のMの所が心配だ「Cお前行ってこい」と父がいう。取るものも取らず牟岐へ走る。途中、占江、内妻も国道に亀裂は走っているが津波の潮位は室戸台風より被害は少いように感じた、ところが大坂峠を下り八坂橋付近まで来てビックリした。

人谷の田圃は浮流物の山々、西念寺は残っているがその先は浜筋の倒れた家々で通れない、泉源の所から浜に出た、壊れた家財その他で歩くこともおぼつかない。堤防の付近にあった加工場、舟小屋、網納屋は一軒も残っていない。

中河原の石垣で囲ったA宅前まで来ると、Mの家は跡形もなく消え、ただ防火用水槽に反物が一枚巻きついているだけ。こんな光景に出会うと人間は不思議なもので涙も出てこない。しばらく呆然と立ちつくす、付近の家を見るT宅やIの家や製氷会社は型は残っているものの、中はもぬけの空である。

対岸の小橋の上には三隻の船(隆生丸、義武丸、その他)が乗りかかっている。
 屋敷跡に立って眺めていると港の方向から灘の叔父(T)がキセルをくわえてやって来た。早速安否を尋ねると「祖母がいない、あとは全員無事でうちに来ている」との返事。

それじゃ祖母を捜さなくてはと思ったとき、Mの舟が港に着いた。祖母の安否を聞いたが今のところ不明だと。早速四名で沖に出たが、浮流物で自由に航海できない、舟の中でMの二階らしき家が鯖瀬の浜に漂着し引上げてある話をすると、それは間違いもなく裏の二階部分だということで早速取りに行く。

ちょうど駐在巡査が来ており、立会のうえ舟に積み込んで帰る。ジャンパーのネームでM家のものと確認された。

 M家でも当日スルメイカ釣りに出漁しており、津島沖で津波に逢い早速帰ったが浮流物で港にはいれず楠の浦へ父だけ降ろして沖で待機していたという。津波時の海流は下り潮で牟岐方面の浮流物は大砂、網代岬、大里松原方面に漂着していることが分かった。

布団類は浅川一里松、田尻の磯で発見され、位牌は遠く大里松原に漂着していた。こんなエピソードがあった。津波から二~三日後、浅川新屋敷のMさん宅へ貴殿宅の位牌が松原に漂着しておったと持ち込まれた。

このMさん宅は津波で全壊したが、位牌は持ち出して無事であった。位牌の裏書にMと書いてあったためだった。この人は私の母方の遠縁に当たり、弟さんは同倫のIさんである。

 連日捜していたところ四日目にして祖母は出羽下で浮いていたところを西浦のM氏(Mとビルマ方面で従軍していた戦友)が遺体を拾って来てくれ、さぞ寒かったろうと懇ろに葬ることができた。

 こうしているうちに私の休暇期限もせまり佐世保復員局へ新聞をつけて大震潮のため休暇延長願を郵送したところ「それは大変だろう、二十日延長を認可する」と電報で承認をいただいた。親類のこうした大災害の後始末に一週間余りが過ぎた。その当時の西浦地区の被害状況をまのあたりに体験し津波の恐ろしさを痛感した。

 この記録を残す会に私は他村出身者でご辞退申し上げたが現在西浦部落会々長として地域実態調査に協力しようとN会長やM先生の勧めに応じあえてこの会に参画したことを特に付記してペンを置いた。

◆「海が吠えた日」は、牟岐町においてまとめられた「南海道地震津波の記録」です。
 詳しくは、牟岐町ホームページをご覧ください。

 

【参考サイト】
牟岐町ホームページ

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