海が吠えた日 第38回 「津波の思い出と体験」 六十代 男性

2011年5月3日

突然ドドーンと言う音と同時に家がギシギシと軋みだした。就寝中であったが危険を感じ、裏の空地に素足で飛び出した。ちょうど目の前にあった物干竿がガタガタと上下動し鳴っていた。

 地震が収まったので家の中に入ったが停電で真暗、手探りで寝床にもぐり込むと、浜側の道より「津波が来るぞ!」と言う大声が聞えてきたのですぐに両親に告げ、服に着替えて母姉妹弟と五人で急いで大坂の方へ避難した。

 ちょうど家並の切れる辺りまで来た時に津波が襲って来た。私はしばらく波の様子を見ながら眺めていた。 津波が段々引いていったので、私は家族と別れ坂を下りて来ると、西念寺の前に一戸建ての屋根が道路上に立ち塞っているので驚いた。どうしようかなと思案していると、右側の闇の中より突然「助けてー」と言う女性の声が聞えて来たのと同時に、白波を立てながら津波が襲って来た。

 あわてて山手の方へ避難した。波は道路までは上がらなかったが側壁に当たりすごい勢いで路上を覆い、あたり一面に波しぶきを飛散していった。すぐに波が引いていったので、私も元の位置まで戻って来ると、まだ波の残る間から女の人がすくっと立ち上ったので肝を冷した。

先ほどの女性だなと思い一緒にいた人と共に引っぱり上げて見たところ元気そうだった。
 だんだんと波が遠のいて行くのを見て、私の傍にいた人が「もう津波は来えへんわ」と言いながら立塞っている屋根に登り、向かい側の道路に降りてどこかへ行ってしまった。私も見習って実行してみると、町並全体は薄暗い中にも静かな佇まいで変わった様子には見受けられなかった。

 家に着いてみると様子は一変で、津波の被害は甚大で家の軒下まで木切れ・セイロ・ゴミ等が山のように積重っていて中には入れない。仕方がないので勝手口の方へ廻って見ると、幾分寄せゴミ等が少ないので取除きながら戸口を何とか入れるだけ開き、中に入ってみると陳列棚は倒れ、食器等は散乱して足の踏場もない。畳は波をかぶりポコポコでその上塩を吹いていた。

 当時私の財産であった皮靴を履き、外に出て見ると斜め前のK家がペシャンコに潰れているので驚いた。おばさんと嫁さんが死亡していたので一瞬茫然としていると、東の方から「誰かおらんかー」という大声が聞えてきた。

走って行って見ると、牟岐津神社の前に人が立っていた。その人が私を見つけると、ここに人が下敷になっているようだと指さす。境内の東側角地に瓦礫が積重なった場所がある。「登れるだろう」と言われるので、上に登りながら枝、木切等を取除いてみると、私の叔母が仰むけに次女Kを背中に、Rを抱いたまま死んでいるようであった。

私は折重っていたRを抱き上げて温かいなと感じ、傍にいた人に手渡すと、その人が「此の子は生きとるぞー」と言いながら抱きかかえ走り去って行った。そこへ四、五名の大人たちが駆けつけてくれたので私は交替し、家族の避難している大坂の方へ出向いて行った。

 登って行くとI家のある山の斜面にそれぞれ家族単位で休息していた。やっと家族を捜し当てしばらくすると握り飯一個ずつが配給された。当時の食糧事情からして破格のことであった。誰言うとなくこれは「Iヤン」M家の差入であろうとの風聞であったが、とにかく美味しくて有難く頂だいした。

 間もなく私には学校があるので皆と別れ家に帰って見たが、教科書が濡れて使えないので手ぶらでY君の所へ行った。Y家は県道の北側にあり少し敷居が高くしてあるので、津波は床上浸水で無かったようであった。午前八時過ぎの汽車に乗るため友人たちと話をしながら、O鉤灸医院の前辺りまで来ると道路が濡れてないので、ここまで津波が来てないなあと言いながら駅へ向かった。

 汽車が不通で家に帰ると誰もいないので、Y君の所でお世話になる事として西浦地区を一巡して見たが、浜辺に近い家では相当被害を受けているようである。特に港に沿った家はひどい有様で、全壊又は半壊がほとんどであった。

また道路に舟が何隻も打ち上げられていて、海面は道路下三十センチほどの所でひたひたと波打っているので少し不気味な思いだった。

 その夜は友達と一緒にY家で囲炉裏を囲み焚火をしながら、津波が来たらいつでも逃げ出せるように着たままで横になったりしていたが、時々余震があって眠るに眠れなかった。とにかく長い夜だった。

◆「海が吠えた日」は、牟岐町においてまとめられた「南海道地震津波の記録」です。
 詳しくは、牟岐町ホームページをご覧ください。

 

【参考サイト】
牟岐町ホームページ

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