海が吠えた日 第37回 「あの恐怖」 七十代 女性

2011年4月26日

西浦会館前の最高潮位標
西浦会館前の最高潮位標

 恐ろしい南海道大津波は、思っただけでも心が痛みます。大きい音に目が覚めたが、電燈が消えると同時に大地震、グラグラ・ゴトゴト・バリバリと今にも家がつぶれそう、しかもこんなに長い揺れなど体験したこともなく、家族五人がうろたえてしまい、どうすることもでぎません。

仏壇の水がひっくり返り、私の寝ている所まで落ちてきました。祖母は、大地震があったら必ず津波が来るぞ、と日ごろから教えてくれておりました。着物だけは着替えて待機していると、庭にブツブツビリビリと潮がにじんで来ました。

砂利の床を通じて、海から潮が湧いて来たのだと思います。「こりゃ大変だ早う逃げんと…」と祖母が玄関の雨戸をこぜあけてビックリ仰天する。前の道路を西から白い波が押し込んで来ました。祖母と義姉(三歳の子供を背負っていた)は飛び出し避難しました。

 私と祖父は、怖くて出て行かず、家の中で待機中第一波の波が来ました。そらそら言っているうちに天井裏まで押し上げられ、梁にしがみつき難を免れました。しばらくすると、引潮になり、そのすきに祖父の手を引いて裏口から逃げました。

 六尺近いM先生宅裏の塀が、第一波の潮で土砂が埋り、軽々と乗り越えることができました。M宅には、大八車が置いてあり、その間を通り国道を右折してM商店前に逃げました。

 Nさん宅に大敷網事務所があり、青壮年の方々が焚火をしており、暖めさせてもらいました。暖くなると心は放心してしまい、何をすることもできず、昌寿寺で炊き出しがあると聞いても歩いて行く力もありませんでした。

 昼すぎになり、親戚の人達が来て祖母・義姉のことを問われ、初めて気づき八方捜しましたが見当たりません。
津波の跡整地も始まり、我が家も流失し、家の取り壊しが行われたところ、祖母・子供を背負ったままの義姉が、家の下敷となり発見されました。祖父や私より一足早く逃げたのに……。

私の憶測ですが、祖母・義姉は、私等より早く逃げたので、第一波はどこかで無事避難し、引潮を利用して私たちを助けに来たものか、位牌か、米か、着物を取りに家に戻り、第二波にのみ込まれたものと思われます。

 昔の人は、大地震が発生すれば必ず津波が来ると教えられ、地震の程度と津波の大きさは関係ありません。

一、揺れてる間は、家から外に出るな。
二、揺れが止んだら何も持たずに逃げよ。
三、引潮を利用して家に戻るな。

この三点を子孫にしっかり教え込むことです。「備えあれば憂い無し」と言われていますので、防潮堤を再点検していただくこと。昌寿寺山の避難道を作っていただき、私たちの生命と財産を守ってください。

◆「海が吠えた日」は、牟岐町においてまとめられた「南海道地震津波の記録」です。
 詳しくは、牟岐町ホームページをご覧ください。

 

【参考サイト】
牟岐町ホームページ

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