海が吠えた日 第36回 「愛児を亡くして」 七十代 女性

2011年4月19日

流された船や家具類が山になって漂っていた
流された船や家具類が

山になって漂っていた

「ゴー」という大きな地響きの音に目が覚めました。しかし私は地震に対する知識も少なく、牟岐へ来て日数も浅く、山育ちのため津波など頭にありませんでした。

アッと思う瞬間にあの大地震で揺れだし、二階にいました。箪笥は倒れなかったものの立つことはできませんでした。ギチギチギチという音がして上下動の揺れでどうすることもできず、ただうろたえておりました。

 そのうちに揺れが止んだので飛び起き、二人の子供を連れ外に出て門の付近をうろうろしていたんでしょう。そのうちに潮が来て、手を引いていた三人がバラバラになり、潮に呑まれ溺れてしまいました。津波というものは、膨れ上って来て引いて行くとは露知らず。ああこれで死んで行くのかと思いました。

仮死状態となっていると潮が引き、女の子が「お母ちゃん、お母ちゃん」と肩を叩くのにふと気がつきました。もう一人男の子を連れていましたが見当たりません。「K、K」と呼んでも姿はなく声もありません。「ああ、あの子は流されてしもうたのかなあ」と夢中であたりを探しました。

 土地の水は引かず浮流物がいっばい流れて来て大きな庭木に引っ掛かり、足の踏み場も無いくらい散乱しておりました。あの時私たち竜流されていたら沖へ流されて死んでいたでしょう。幸いここの屋敷のまわりは石垣が高く積まれ、庭木の大木があり潮が淀んでいたので、死んだKも屋敷内で発見することができたのです。

浜からくる潮と港からくる潮の合流で流されることも無く、そのうちに気がついたのでしょう。恐ろしくなり夢中で二階へ女の子とともに逃げておりました。結果論ですが最初から二階にいればKも死なずに、三人が無事であったでしょうに。

 次の潮で梁まで浸水しましたが、二階の畳は濡れませんでした。第二波、第三波と潮が来たといいますが私は気が動転しており、何回押し寄せてきたのか全然分からない状態でした。

 夜が明け潮が静まってから消防の方が調査に来てくれましたので、男の子が流されたと話しました。屋敷内を捜索してくれましたところ、A家とK家の間の隅に犠牲者となって発見されました。

一番下部に遺体があり、その上に浮流物が山のように上積みしておりました。「さぞ寒かったでしょう。重かったでしょうK」と懇ろに葬ってやりました。
 今考えますと、地震が止んで子供二人を連れて二階から降りて来て、家主のAさんに相談したように思います。

このときAさんも西隣の舟曳場の方へ流され、運よく流れて来た舟にしがみつき、潰れた享楽座(芝居小屋)の屋根の上で助かり、近くにあった木によじ登ったそうです。

 その後、急を聞いて古里の相生から親類の方々が援助に来てくださり、応急住宅に入居できることとなり私の人生を変えることになりました。

◆「海が吠えた日」は、牟岐町においてまとめられた「南海道地震津波の記録」です。
 詳しくは、牟岐町ホームページをご覧ください。

 

【参考サイト】
牟岐町ホームページ

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