海が吠えた日 第35回 「荒れ狂う海」 七十代 女性

2011年4月12日

昔の西浦の浜
昔の西浦の浜

あの恐ろしい南海大震災が起きた前日のことです。朝からするめいかが大漁で、漁師の人たちがとってもとっても、広い海一面にするめいかが異状なほど泳いでいました。

夕方近所のおばさんたちが釣瓶で井戸水をくみ取ろうとすると、釣瓶の底がカタカタと井戸の底石にあたり、水が汲み取り難く井戸水が極端に少なくなっていました。

そして夜になると、いつも天井裏を騒がしく走る鼠の音がありません。父は「今夜は静かな夜だなあ、鼠一匹走る音もしない」と言っていました。何となく重苦しく寝苦しい長い夜でした。

 十二月二十一日地震が起きた朝です。当時牟岐町女子青年団長の私は、副団長のIさんと始発の汽車で、徳島へ青年団のバレーボールを買いに行く予定でした。

午前三時に起床し身仕度をととのえて、お茶を沸かし朝食を取ろうとした時です。いきなりグラグラときました。家はキシキシと音をたてて揺れ始めました。大きな揺れがなかなか止みません。これは大地震です。

父は私に「J、水をかけて囲炉裏の火をすぐ消すのだ。そして入口の戸を早く開けろ」と大声でどなりました。

 そして今度は家族みんなに「急いで起きろ。津波が来ると危ないから、みんな昌寿寺山へ逃げるのだ」と真暗な家の中で父の必死の声が響き渡りました。私の家は海に近いので、小さい時から津波の時は必ず近くの昌寿寺山へ避難するように教えられていました。そこで家族全員昌寿寺山へ逃げることにしました。

 近所の誰かが二階の窓から「津波が来るぞ、みんな早く逃げろ」と大声でどなっていました。私たちは大事な物を持ち出す暇もないままに走り出しました。昌寿寺山まではそう遠くありません。

車に家財道具を乗せて行く人、自転車で行く人、徒歩で荷物を背負って急ぐ人、みんな必死で走っていました。私たち家族が家を出たのは他の人よりずっと早いと思っていましたが、昌寿寺山の麓に着いた時は既に足元に波が来ていました。

家を出るのが一瞬遅れていたならば、恐らく波に流されていたことでしょう。私の家より少し浜辺に近い家の友達は、地震が起きた時すぐ逃げないで、家の中へ大事なものを取りに引き返したために、命を落しました。その家は平屋でしたので、家も流されました。その付近の二階建ての家はほとんど一階が潰れ、二階だけが残っていました。

 私の近所の中年の夫婦は、私たちのように昌寿寺山の方へ逃げないで、八坂橋方面へ逃げようとしました。その道は海に沿った道なので、途中で波がやってきました。夫婦は無我夢中で大きな庭のあるKさんの家の一番高い木によじ登り、潮が引くまで必死で木にしがみつき、九死に一生を得たのです。

本当に生きた気はしなかったと言っていました。またある人は八坂橋方面へ逃げて行く途中、「そっちへ行ったら危ない」と誰かが言ってくれたので、あわてて昌寿寺山の方へ逃げ命が助かったと話していました。八坂橋方面へ逃げようとした人は一人亡くなりました。

 私の親友は地震が起きたら津波が来るのが分かっているのに、自分の着物が潮に流されるのが嫌で、一階に置いてある笥笥の引出しを三段次々に二階へ運びました。しかしこれ以上運んでいると自分の命が危ないと気がつき、一目散に山へ向かって逃げたそうです。

 地震の後津波が押し寄せて来る間の時間は少しあったようです。地震が止んだ時にドッーという物凄い海鳴りを聞きました。そして次にガラガラと大きな音がしたのを多くの人が耳にしました。

 関地区に住んでいる友達も、ガラガラという大きな音が海の方から聞えてきたと言っていました。その地区の人たちは竹薮の中へ避難したそうです。

 私たち家族は無事昌寿寺山上へ逃げることができました。副団長のIさんの姿が見えません。心配になって探しましたが見当たりません。潮が引くと男子たちはまだ山に姿を見せない知人を探しに山を下りて行きました。

間もなくIさんが男子たちに抱きかかえられて山へ上がってきました。衣類はずぶ濡れで顔色は青く苦しそうでした。ブワーブワーと海水を口から何度も何度も吐いていました。私は思わず走りよって背中をさすって上げました。気持ちが落ち着いてからいろいろ話を聞いたのですが、妹さんと一緒に死ぬ所だったのに、運よく助かってよかったと思いました。

 山に避難してしばらくすると夜も明け始め、視界が開けてきました。山上から下を見て海に目をやると、ごうごうと大きなうねりを立てて、濁流が渦をまいています。二階建ての家が流れてきました。よく見ると、二階の窓辺に二、三名の男女が手を振って助けを求めていますが、どうすることもできません。

あっと思う間もなく、家諸共濁流に呑まれてしまいました。また家が流れてきます。次から次へと家や材木等流れて来るのです。平素は静かな海も一度狂うと悪魔のように暴れ狂います。

 津波後すぐ山を下りるのは危険なので男子のみ下山し、町を警戒に廻ってくれました。女、子供、老人は山で二晩泊りました。津波の三日目から救援活動を開始しました。女子青年団員はまず炊出しをすることになりました。

東地区は八幡神社境内で、西浦地区は満徳寺裏庭で炊出しを始めました。たくさんのおむすびを手が真赤になるほど握りました。また警察や役場の後片付づけや掃除、そのほか布団や衣類等の洗濯もしました。

みんな不眠不休でよく頑張ってくれました。お陰で町民の方々には大変感謝されました。私たちは崩壊した愛する牟岐町を早く復興せねばと、その一心で頑張ったのでした。

◆「海が吠えた日」は、牟岐町においてまとめられた「南海道地震津波の記録」です。
 詳しくは、牟岐町ホームページをご覧ください。

 

【参考サイト】
牟岐町ホームページ

地図

昌寿寺山

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