海が吠えた日 第33回 「津波と私と野球」 六十代 男性

2011年3月29日

 昭和二十一年十二月二十一日の、いまわしい南海道大津波に、海上の小舟で体験した私のことについて、ペンを取ります。

 当時十四歳で小学校高等二年生だった。先の大戦で父が今年の春、ビルマから無事復員し、古舟を買い、やっと元の漁師に戻り我が家にも、ささやかな暮らしが戻りつつあった。

 津波の七日前、父に無理にねだって革製の野球用グローブを買ってもらった。その当時は布製で自分で作ったグローブで遊んでいた。そのうえにバットとボールも買ってくれ、とねだったところ、「沖へいかんか、お前が釣った魚はみんなやるからその金で買え」といわれた。

私は生まれて初めて父の舟で夜釣りに沖へ出た、その夜はスルメイカが大漁で夜半ごろまでに、バットもボールも買えるほどの漁をした。父は「明日も野球で遊ばないかんのに、もう寝とけ」という。私は舟首部の『ハイコミ』で毛布をかぶったがなかなか眠れない、明日にも買ってもらえるバットやボールのこと、友達との野球のことを考え嬉しくて眠れない。

やっと、まどろみかけたころグラグラと舟が揺れた、海面もジャブ、ジャブと音がしている、跳び起きると「こりゃ地震や」と父と叔父の話、陸地の牟岐方向に何回も稲妻のような閃光が走る。断線時のスパークだったのだろうか。

小張山の灯も牟岐の灯台も消え、陸地は真っ暗になった、二十分も経っただろうか「えらいことになったぞ、早ういなんか」と叔父がいう。
 エンジンを始動し、錨を上げにかかる、集魚灯の下の海面は泥水と化し激しく流れだした。星明かりをたよりに牟岐港に向かう。

 漁場は、アナツボという津島の南東三百メートルぐらいの所だった。近道にあたる津島とクレ石の狭い間を三馬力のエンジンで通過しようとしたが、第二波の引き潮だったのか舟は前に進まなかった。

やっと津島の西側へ来たころ、今度は込み潮に乗ったのか見る見るうちに牟岐の前まで来た。あわただしい浮流物・壊れた家・無人の舟・魚を干すセイロ・藁ぐろ・などが流れており、込み潮・引き潮で港へ入ることはできなかった。父が「夜明けまで待たんか」という。

現在の楠の浦灯台位の位置に錨を入れて、エンジンを止めたところ、小張山の方向や、仏崎等の磯辺のあちこちから「助けてくれ!!助けてくれ!!」と悲鳴が聞こえてきたがどうしてやろうにも、舟を動かせる状態ではなかった。そのうちに力尽きたのか、その人たちの声も聞こえなくなっていった。

現在でも悔やまれてならない。やがて白々と東の方から夜が明けてきた。覚悟はしていたものの浜辺の我が家を見ると家の屋根さえ見えなかった。
 二階の神棚の下の戸棚に大事に仕舞ったグローブの心配どころでなかった。

「家族が心配だ、潮の間をみて楠の浦の浜につけてくれ」と父がいう。櫓を漕いで舟を浜に着け父をおろし再び元の位置に投錨して父の帰りを待つ、昼過ぎになって、やっと父が楠の浦の浜へ帰って来た。

母や姉弟は舟曵場に引き上げてあった古い網舟に乗り助かっていたが、祖母が不明だとのこと、家族が一緒に逃げたのに……「昔人間」のことでこっそり引潮時に位牌か何かを取りに戻り波にのまれたのでしょう?

 その後大里の浜に漂着していた位牌を地元の方が見つけてくださった。Mと裏書があったので、浅川のM(現在牟岐東のIさんの実家)さんへ持って来て戴き、牟岐に同姓同名の人があることをしって連絡があり、位牌は無事に返った。もし私が家にいたら大事にしていたグローブを祖母と一緒に取りに戻っていただろうと思うとゾットする。

 十四歳の年ごろは自分の体にうぬぼれを感ずるもので、家族の制止も聞かなかったろうと思うと、野球のグローブに、不思議な出合いを感ずる。六十四歳の現在も若者と一緒になって白球を追い楽んでいる。大地震が発生したら必ず津波が来るので家に帰ることなく直接高台へ避難することを子孫に伝えて行きたい。

 また中河原の赤線の道は、先の津波後、無計画に網納屋を建てたため、道らしき道は無くなった。戦前にはダンジリも通った時代もあり、立地条件の悪い中河原の生活道として、また緊急時の避難道路として是非整備して私達の尊い生命と財産を守ってほしい。

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