海が吠えた日 第30回 「死をまぬがれて」 六十代 男性

2011年3月8日

昭和二十一年十二月二十一日未明、寝床ごと激しく揺り動かされ飛び起きた。とっさに、「地震や、皆起きよ!」と叫んだが、激しい震動で立っていられず思わず膝をついてしまった。

 襖がバタンバタンと倒れ、ドシン、ガチャンと落下して壊れる物音が聞こえてぎた。
 「家の中にいたら危い。早う外へ出よう」と家族に呼びかけながら普段着に着替え始めた。

 激震がおさまって、しばらくすると、遠くの方から「津波や、津波が来るぞ!」という叫び声が聞こえてきた。
 まず、年少の弟二人(当時十二歳と八歳)に、「本町通りからK商店の露地を通って、杉王神社へ行け」と指示し避難を促した。

 母は生後一歳七か月の妹を、助け帯を締める間もなく負いごのまま背負い、父、姉、私と五人で旧O製材(現Y氏宅付近)の工場の中を通って、D(現K病院及び付近一帯)を経て杉王神社境内へ避難しようとした。ところが、製材所の機械室の中は早くも潮がヒタヒタと流れ込んできた。とっさに身の危険を感じ、牟岐川沿いの道路めざして駆け上がった。

 先頭の私が、現在のM氏宅から北へ約十メートルほどの所で後ろを振り返ると、製材所の木材集積場の前辺りで、父たち四人が水かさの増した潮に巻かれようとしているではないか。急いでとって返し、「早う逃げんと皆が流れてしまうよ」と叫ぶと、父は「わしはかまわんからお前等だけ早う逃げえ!」と、いくら促しても動こうとしない。

潮は見る見るうちに膝から腰へと上ってきた。しかも数本の木材が流れてきて身体に絡みつこうとする。遂に水かさは腰から胸元近くに達し、水勢に押し流され始めたので、家族四人(母の背中には幼児)互に肩を強く抱き合いながら、もうこれまでと観念した。

 「皆で一緒に死なう。最後に神様にお祈りしよう」と私が悲痛な思いで呼びかけたところ、姉が「死んだらいかん、死んだらいかん!」と絶叫した。いよいよ勢の増す潮に押し流されてしまうのかと覚悟していたところ、なんと胸元近かった潮が、すーっと引き始めたではないか。運よく引潮時となったのだ。

 「ああ助かった」と私共家族は、満身蘇生の喜びに溢れつつも疲労困ぱいして、とぼとぼと杉王神社目指して避難していった。
 逸早く避難していた二人の弟も駆寄ってきた。

 杉王神社境内への避難者たちには、町当局のご配慮か、近所の有志の方々のご厚意であったか、握り飯が配られ、一時空腹をしのぐことができた。
 被災当日は厳寒の時期なのに、被災のショックで寒さは余り感じなかったのに、あの時のお握りのおもてなしは、今もなお、温い思い出となって心に残っている。

 もう津波は大丈夫だという情報が流れ、避難の人たちはほとんど自分の家へ帰って行った。我が家は西側へ約十五度傾斜し、畳、建具、家財一切は流失し、代わりに約二十畳の広間には、雑多な流材が大人の背丈ほども積重なっていた。
 家の東側には、出漁していた漁船が津波に押し流されて横付けになっており、漁師ご夫妻が、浸水を免れた押入れの上段で布団にくるまって暖を取っていた。

 北東側の三坪の炊事場は、えぐり取られたような痕跡をとどめて流失していた。恐らく東隣の空地(現M水産駐車場)が電柱置場だったので流失した電柱が当たったのだろう。
 津波の潮位は、自宅の場合柱のシミや、壁土の損傷等から床上約七十センチメートルと推測している。

 被災の事後処理については、町の有志の方々や信徒のご厚情によって、短期間に取片付けて戴き、整理整頓させてもらったことは、感謝に耐えない。家屋の傾斜、破損か所、屋根瓦、壁、畳等は、建築専門の方々に依頼し、翌二十二年内に滞りなく修復させてもらった。

 津波に関わる反省として、避難の際、弟等と同じ避難経路が一番安全ではあったが、避難者が集中し混雑していたので、道路面より低いと知りつ、最短距離と考えて上述のコースをとったのだ。
 だがそのまま強行していたら、田圃は湖のようになり、家屋や大量の流失物に巻きこまれ、私共は揃って溺死していたのかも知れなかった。

 現在、津波被災後の対策として、防潮堤や堤防等が構築されたから、今後はあの程度の津波では、N住民地区に限っては、当時と比べ、人的、物的被害は大幅に軽減されるのではないかと思う。万一逃げ遅れるようなことがあっても、あわてずに行動したら命を失うようなことはあるまい。

 天災に対して、人間の力では万全を期し難いかも知れないが、常日ごろから不時の天災に備えて、物心両面の準備と、災害時における沈着冷静と、安全を守るための瞬時かつ適切な決断ができるように心掛けよと、震災と津波は厳しく私に教えてくれたのである。

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