海が吠えた日 第27回 「子をなくしたこと」 七十代 女性

2011年2月15日

牟岐小学校庭よりこのあわえにゴボッと潮が流れ込んできた
牟岐小学校庭よりこのあわえに

ゴボッと潮が流れ込んできた

 七十八年生きてきた中で、一番悲しい思い出が今年もやってこようとしている。思い出したくないが、今もなくした子は、当時の年齢で私の胸に生きている。
 少ない食物を分け合いながら、三人の子供と賑やかな一時を過し、小さな幸せをかみしめていた。

十時間もたたぬ後に、一家が地獄の思いをするとは、誰も予想することはなかった。
 ゆさゆさ揺れるのに目をさました。そんなに強いとは思わなかった。何回か繰り返して揺れる。

前のMさんや、近所の人たちとの話し声につられて道路に出てみた。まもなく裏の牟岐港の潮が持ち上がって道路まで来ている。「これは津波かもしれん、逃げよう!」とお父さんが言った。私は末っ子のM(一歳)を寝まきの上に、左肩から右わきにかけ、黒帯を広げて背負った。

お父さんはK(五歳)とH(三歳)の二人の手を引いて、何も手にせず逃げだした。腰まで来る潮に驚き、Mさん一家と牟岐川に沿うよう一団となってIさんの方向に逃げた。当時牟岐川には堤防はなかった。

津波は胸まで船と共に何回となくやってきた。そのたびに電柱にしがみついたり、家の中に逃げこみながら、背の子をしっかり押えながら、死にもの狂いになって、H店(今のK)まで来た。お父さんとははぐれてしまった。

 幅三メートル、長さ四メートルの簡単な手すりのある橋を渡ろうとした時、左側からきた波に、手すりとSさん(今のT洋装店)の間から用水に流された。
 あっという間の出来事だった。

近くの製材所から流れこんだ材木に必死になってしがみついたが、次々に流れてくる材木との間に寝巻をはさまれ、身動きでぎなかった。「Tちゃん助けて!」「姉さん早よう助けて!」と夢中に叫んだ。

一緒に逃げたTちゃんが材木を動かしてくれ、やっとの思いではい上がった時、背の子がいない。「M!、M!」と叫ぶが見当たらない。放心した私を誰かが体を抱きかかえるようにして、杉王神社に連れて行ってくれた。

 ズブ濡れになった寝巻姿に黒帯が肩からぶら下がっている自分を意識するには、どれだけの時間がかかったか分からない。
 境内には、命からがら逃げて来た人、ふとんや身の回り品を持った人などでごったがえしていた。恐ろしかった悪夢の一時を口々にしゃべる声が聞えるにつれて、十二月の明け方の寒さが身にしみてくる。

「おばさん寒いやろ、布団の中にはいり」と言ってくれた。「私はズブ濡れやけん、汚すけん」「かんまん、汚れたら洗ったらええけん」私は寒さに耐えられず、ご好意に甘えた。Sさんのこのご好意は、その時の私にとってどれほど嬉しかったことか、今もSさんに感謝している。

 ようやく明るさが増し、津波の心配もなくなり、三々五々と家に帰える人たちも目だった。津波の中をくぐりながら一キロメートル余りを逃げて来て、体力を使い果たしたというより、Mをなくしたことが、時間が経つにつれて重くのしかかり、気も狂わんばかりであった。ただ涙が出るばかりで呆然としていた。

 誰が背負ってくれたか、お父さんの里である関のS宅まで連れていってくれた。そこにはお父さんと二人の娘が、心配そうに待っていた。「Mは?」私は答えることもなく、泣くばかりであった。もしお父さんとはぐれなかったら、逃げるコースを違えていたら。悔んでも悔み切れない。

 何日か経って我が家に帰ってみたら、港の船が何の抵抗もなく、一階に居座り、二階が下に落ちていた。家財道具は流失し、最愛の子を失ったあの日のことが、今も鮮明に思い出される。地震と津波の恐ろしさを少しでも知っていたら、あんなつらい思いはしなかっただろう。

 後で分かったことだが、お父さんと娘二人は、家をでてから途中でIさん宅に避け、更にSさん宅の二階に避難しながら、関のS宅まで逃げたという。

地図

杉王神社

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