海が吠えた日 第19回 「南海津波を思い出して」 八十代 女性

2010年12月21日
海蔵寺石段より西側を望む
海蔵寺石段より西側を望む

あの日午前四時過ぎと思う、突然地震が揺ったのであまりの大きさにびっくりしました。五歳の女の子と一歳半になる男の子を直ぐ起こして服を着せて、早く逃げることにせなければと思って、位牌を風呂敷に包んで五歳の女の子に背負わせました。

 

下の男の子は急いで私が背負って、女の子の手をひいて家を出ました。

すると外はわいわいと人の大きな叫び声がしておりました。ある人が「もう東の方へは行けないぞ!土橋が落ちてしまって行けないから」と言って西を向いて走って行きます。

 

人の行くようについて走って行っておりました所「海蔵寺へ行く!」と言う人の声に一生懸命に子供の手を引いて走りました。海蔵寺へあがって行く時にはもう石段の上り口には波がじゃぶじゃぶと来ておりました。

 

石段の所で子供がおぶっていた位牌が落ちて、あっ大変だと思い急いで探していたら直ぐ見つかって拾い、人が後へ後へと石段を上って来る中を無我夢中で親子三人無事に海蔵寺へ上って、家の座敷へ座わらせてもらってやっと落ち着くことができました。他の人も落ち着きもう家のことは何も思いませんでした。

 

座って沖を見て一文字堤防の潮が少なくなってずーっと下に行ったかと思うと、また潮が高くいっばいになったりし、余震が何回も何回も揺っておりました。

 

時間が過ぎてから家にもどって見ると家は残っておりましたが、色々の流れ物で家の中は何と言ってよいやら驚きました。家の壁は自分の背の高さぐらいまで土が落ちておりました。二階がなかったから中の物は何ひとつ乾いた物がありませんでした。

 

箪笥も水に浮いたのか横に倒れていました。家の中にはさつま芋やするめいかやら、漬物の漬けたばかりの樽等が壁の間にはさまっていっばいになり、便所と何もかも一緒になって何と言えばよいのやら、何からどう手をつけてよいのか毎日途方に暮れていました。

 

私の実家がS地区にあったので母親と兄が来てくれて濡物一切を運んでくれました。それから毎日着物の後片付けをしてくれたり、私は家に流れ込んでいるいろいろな物を外に放り出しては少しずつ取り除けるより方法はありませんでした。

 

毎日町役場からいただいたと思う炊出しのおむすびをいただいて、毎日毎日後片付けで何日かが過ぎました。それでも家が残っていたので壁の落ちた所を土で塗ってもらって、あちこちと直してもらい、どうにか嫌な臭いもしたが家に入ることができました。

家があったおかげで本当に嬉しかったです。当分の間はただ自分たちのことばかり考えていたと思います。

 

あの当時、津波で流されたりして命を落とされた気の毒な人たちの事はいつまでたっても忘れることはありません。同級生の人もなくなりましたが、聞いてはいたけれども見送ってあげられず、本当にかわいそうでたまりませんでした。

 

もう五十年を後にして詳しいことは覚えていませんが、まだ私たちは何にも無くても命があったため、今日まで生ぎられたことを嬉しく思っております。もう私たちの代にはあるまいと思うけれど、後々の人々のために言い伝えておいてあげたいと思います。

地図

海蔵寺

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