海が吠えた日 第17回 「南海津波を思い出して」 六十代 女性

2010年3月30日
東浦馬地、K家の納屋2階まで津波がきた
東浦馬地、K家の納屋2階まで津波がきた

昭和二十一年十二月二十一日未明ふと目を覚ますと、電灯がぎっちらぎっちらと左右に大きく揺れて、家の柱がぎしぎしと揺れます。今までに体験した事がない無気味な地震です。しばらく揺れて止まりましたので、私は布団の上に座っていましたが眠いのでまた布団の中に入っていました。母と姉はこんな大きな地震は生まれて初めてだと言って、大事な物を持たなければと仏様等準備していましたら、間もなく父が浜へ行っていたのか、浜の方から大ぎな声で「津波だ津波だ」と叫んで、「早く海蔵寺へ逃げろ!」と言って帰って来ました。

私はびっくりして飛び起き履物を探しましたが、電気が消えて暗いので見つからず、裸足で何も持たず逃げました。近所の人たちも子供や家族の名前を呼び合いながら、高い方海蔵寺を目指して走りました。海蔵寺の石段は人でいっぱいで上れず、山をかけ上って行きました。その時は夢中で分からなかったのですが、落ち着くと裸足でしたので足が痛いのと寒さで困りましたが、潮にも浸からず無事逃げられました。母と姉は私より少し遅くなったので、家を出る時はもうつぶしまで潮が来ていたそうです。

夜が明けて来るとまたびっくりしました。海蔵寺から海を見ると、一文字防波堤の前には家が流されて、屋根がぽっかり浮いているのです。朝のうちは小さい余震が何度もありましたが、お昼近くになり少し落ち着いたので、家へ帰ろうと下りて来ましたが、町は船やらガラクタで家へ入れません。Y商店から川寄りの家は皆倒れていました。

Yの家は二階が町の真中に倒れ、道路をふさいで歩けません。隣の母屋は庇が飛ばされていました。私の家はどうにか建ってはいましたが、中はグチャグチャです。天井下一〇センチぐらいまで潮が来ていたので、布団もベチャベチャで出すこともできません。その晩、隣組の人たちはOの二階が潮も来ず無事でしたので泊めてもらいました。

下町の人たちの内、お年寄や子供さんたちが逃げ遅れ、津波で流されてたくさん妙見さんに運んでぬくめたりしましたが、大勢の方が亡くなりました。

妙見さんの境内は棺桶でいっばいになりました。南海大地震は地震だけでは家は壊われなくて、人も死ななかったと思います。津波で家も人も流され、水の来なかった所は家が潰れてなく、死亡した人もいなかったように思います。

私の家族は一〇日間ぐらい灘のHさんの家で泊まらせてもらい、大変お世話になりました。毎日朝から晩までガラクタの整理や洗い物で、何にもかもドロドロでした。ガラクタを燃やす中へさつま芋を入れて焼き、隣近所の人たちと皆で食べました。

また、町内の方も後片付けに大勢出役してくれました。救済物資は軍服と乾パンぐらいだったと思います。

また、後日、家を流された人たちに、バラック建ての応急住宅が灘道と旭町に建ちました。

地図

海蔵寺

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