海が吠えた日 第60回 「五十年前をふりかえって」 六十代 女性

2011年10月4日

出羽小学校より見た港と家並
出羽小学校より見た港と家並

今年も十二月二十一日がま近かです。五十年過ぎし今も恐しかった津波の惨事がまざまざと目に浮かびます。私はその時十七歳でした。

朝方の眠むたい時刻で夢うつつ、あー地震や!と目はあいたけど起き上がりもせず、もう止むかと思っていたら、ますます揺れがひどくなります。

 

そのころ未だ天井板も張ってない納屋の二階が気にいって、私の部屋にしていました。父が仕事の合間に天井板を張ってくれるつもりで、木材を梁に渡して上げてあったのが、ドタンバタンと落ちて来るし、布団をかぶって小さくなっていると、下から父が大声で、「この大きな地震に何しょんや早よう下りて来い」とどなるので飛び起きました。

 

階段はミシミシ揺れるし、足はすくんで動かれずモタモタしていると、父が中途まで上がって来て、私を引きづるようにして下ろしてくれました。「こんな大きな地震やと津波が来るか分からん」と母が言うと、「チイは早よう逃げ!」「ぞうりをはいて早よう早よう」と両親にせきたてられて外に出ましたが、津波やったら家が流れてしまうのやろか、何か持っていかなと思い、部屋にもどると、宵の家内中の洗濯物がたたんであり、大あわてでそれをひっくるめて、それだけ持って飛び出しました。

 

道々人の波に押されるように暗い山道を手さぐりで、誰かさんのちょうちんの薄明かりを頼りに、夢中で坂を上がって波の怖さも知らずに逃げました。師走の寒さはちっとも感じませんでした。

 

やがて東の空もあからむころ、そろそろ下りかける人の後について、私も両親どこやろかと恐る恐るお寺まで下りてみると、「お母やん、お母やん」と泣く子やら、じいやん、ばあやんと呼ぶ声、沖より引返して来たお父さんたちが、奥さんや子供の名を呼んで家族を捜すのに大騒動です。私も半泣きになって両親を捜してうろうろしていました。

 

庭で焚火をしているので行ってみると、濡れた人たちが大勢火を囲んでオッシャイ・ヘッシャイです。その中に両親を見つけた時の嬉しかったこと、一お母やん」と飛びついていけば、母もびっくりして、「どこにおったん、早ようあたらしてもらい」と中にひっぱりこんでくれました。「おったか、おったか」と父は私の肩を抱いて自分の胸で風の垣をしてくれたものです。

 

火にあたりながら、沖から引返して来たおっちゃんの話によると、「今日は潮の流れがむちゃくちゃ早いな、おかしいな」と言いながらふと島の方を見ると山に火があっちもこっちも見えるし、その火が上に上に登っていくので、これはただごとでないと引返して来たんや」と言っておりました。

 

後で気がつけば、母の着物は火に焦げてぼろぼろ、私が初めて縫った本身の袷やったので、縞柄や色は今も忘れません。戦後一年経っていてもまだ食物も十分でなかったので、私の出た後も両親は、米麦はもちろん押入れの梅のつぼやら手当たり次第に二階に上げたりで暇どり、裏口に出るのと同時に波が押しよせて来て腰までつかったとか。

 

父はそれでも波をかきわけてでも前に走ろうとする時、母は子供のころ祖母より聞かされた「津波の時は前に出んと裏に上がるんや」と言ったのが頭にひらめぎ、父をひこづって裏に上り、土手伝いにお寺に上ったそうです。昔の話を聞いていなければ二人共に押流されてどうなっていたか分かりません。

 

頑固な父も津波の話が出るたびに、「あの時はHにひきづられて助かった」と一つ話にしておりました。―安政の津波には、土手に切干大根を干してあったのが、そのままあったので裏は大丈夫!―と聞かされていたそうです。

 

「いつかまた、忘れたころにやってくるので、おばあさんはもう会わんけどHはようおぼえとき、それから火の始末忘れんよう、なんぼあわてても素足で飛び出んように必ずぞうりはいて」と折にふれ聞かされたのが、とっさの時に思い出して本当によかったです。

 

やっと夜が明けて家にもどってみると、どこから片付けてよいやら、「あいた口がふさがらんとはこのことや」と母、何しろ水洗便所でないのでそこらあたり一杯で、「どないしょ、どないしょ」と立すくみました。

 

父はご近所まわりして前のおばあさんが見当たらんというので、家の片付けどころでないと飛んでいき、みなさん総出でくまなく捜しましたが見つからず、海の方も何日も何日も捜しました。

 

ニコニコと私たちにもやさしかったおばあさんはとうとう見つからんままでした。もう一人四軒向こうのおばあさんは、たまたま牟岐の親戚に泊っていて流され、出羽島では、おばあさん二人の犠牲者が出ました。

 

家は相当傷んだ所もありましたが、軒までつかっても流れた家はありません。私の家はちょうど襖の引手までつかりました。なかなか張り替も間に合わず長い間、「ここまでつかったんよ」と言うように線が入ったままでした。

 

両親の布団もずぶ濡れかと思ったら畳の上に重い物がなかったようで、浮き上がって濡れずに助かりました。タンスの中の母のよそ行きの着物が全部つかって、特に留袖の紋も裾模様も裏のモミが染んでしまってあわれなものでした。

 

私の一張羅の着物は幸に一番上に入っていたので無事でした。着物の洗濯など後まわしで、毎日毎日床下をはぐって、畳を干したり何日かかったかそれは大変でした。大分日がたってから、大八車を借りて辺川の川まで父と着物の塩出しに行ったり、いろんな目に会いました。

 

その後、赤痢患者があっちこっちで出て、島でも何人かの人が亡くなりました。私の育った家は安政の津波の時に新築してまなしやったとか、二回も津波に会ったわけで、建替えの時住みなれた家こぼしを心淋しく眺めておれば、近所のおじいさんが「津波に二回もあったのはこの家だけや、それでも無事やったのにつぶすのは惜しいナー」とそんな声もあり感無量でした。

これだけ進歩しているのに、津波も台風のように予測できればいいのにとつくづく思いました。

 

五十周年を機会にまさかの時に、安全な近道を家族みんなでよく、よく話し合いましょう。いつか役立つ日はあって欲しくありませんが、天災はいつ来るか分かりません。私の体験したこと感じたことを一筆したためました。

 

◆「海が吠えた日」は、牟岐町においてまとめられた「南海道地震津波の記録」です。

詳しくは、牟岐町ホームページをご覧ください。

 

【参考サイト】

牟岐町ホームページ

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