海が吠えた日 第64回 「南海道大地震の思い出 ―五分遅かったら!―」 八十代 男性

2011年11月1日

当時私は、県立渭城中学校(現在の城北高校)の教員で、地震の前日、牟岐へ帰省しており、翌日は出勤のため牟岐駅発の一番列車に乗るべく未だ薄暗い黎明の道を駅に向かって急いでいました。

 

ちょうど大牟岐田の丈六地の田(椿谷から百メートルぐらい町へ寄った付近)の側へ来た時、それはそれは全く突如として、南方の海上の空に真横に一大閃光が走ると同時に、大地がゆらゆら大揺れに揺れ出したのです。

 

その時はまさか地震だとは気が付きませんでした。ただひどく歩きにくいなあ、何事が起こったのだろうか、進駐軍が大きな艦砲でも撃って大演習でもやっているのかなあ等と思ったものでした。

 

ともかく早く駅へ着かねば汽車に遅れるとの一心から、しゃにむに足を早めました。今から思えばその時が、昭和二十一年十二月二十一日午前四時十九分であったのです。

町まで来ると未だ薄暗く、全体がひっそりとしてわずか二、三人の人が家の外に出ているだけでした。

 

そんな中を懸命に歩いて、ようやく牟岐駅に着きました。やれやれやっと汽車に間に合ったと思いきや、そこにい合わせた数人の人が、「津波だ!」と言って走り出したのです。私も後から付いて杉王神社の境内に登りました。

 

そこにしばらくいたが、何事もなく汽車も出るというので数十分遅れの一番汽車に乗りました。汽車はしばらく走った所で、土砂崩れがあって不通のため、再び駅まで引き返しました。私も止むなく灘へと帰途に着きました。

 

しばらく歩いて驚いたことに、大川橋の少し上手の右岸沿いにあった家はことごとく流失し、更に驚いたことには大川橋の上に漁船が二隻も乗っかっているではありませんか。あんな舟をあんな高い所まで押し上げた波は、少くとも高さ六メートルはあったに違いない。

もしも自分が五分遅れていたら、必ず大波のため犠牲になっていたに違いない。 よくも助かったものだと、大きな命拾いをした思いでした。自分がこの橋の辺りを通った時、沖には津波の大波が真白な牙をむいて、ごうごうと大きな音を立てていたに違いないのだ。

 

それなのに自分は耳が遠いのと汽車に遅れまいとする一心からそんな異変を顧みる余裕はなかった。誰か一人私と同じ汽車に乗るために急いでいて、津波に流されて亡くなられた方があると後日聞きました。

 

大川橋を通り越して更に進んでいくとまたびっくりしました。Fのお菓子屋さんの前に、以前はずっと海岸寄りにあった草ぶきの小屋が、そのまま流れて来て、Fさんのまん前でドンと座っているではありませんか。未だ未だ驚くのは早かった。

 

更に進んで町の東端、H商店の所まで来ると、当時日の出橋という小さい橋があり、そのそばにMさんがありました。Mさんのお宅はもちろん北に並んでいた坊小路の家並が流されて、大小の破片が大牟岐田の田の中一面に広がって埋めつくしているではありませんか。

 

その下には犠牲になられた方のなきがらが幾つもあったと聞いています。それにしても大川の西岸といい、坊小路といいとにかく大波や津波の時は、川のそばは極めて危険であることが分かりました。

 

私が大牟岐田から駅まで歩いたわずか二十分ぐらいの間に、ものすごいことが起こっていたのだなあと思いながら家に帰ってみると、またまた驚くことが起きていました。塗りかえたばかりで、今朝まで美しかった表座敷の壁が何と無惨に幾筋にも、大きな亀裂が入って泥が一面に畳の上に散乱しているではありませんか。

 

裏の納屋に入ってみるとそこにも同じようなことが起きていました。家族たちは私が駅に向かって走っているころ、町の人々が津波が来たと言って大勢灘へ逃れて来たので、凡夫はどうなったのだろうかと心配したそうです。

 

翌日改めて西の町まで行ってみると、その当時は警察署が現在の役場の西側にあって、役場との間に幅七メートルぐらいの川があり、その橋の上にも船が三隻乗っかっていました。 このような大異変は、我が牟岐町に限って関係ないと思っていたが、このたびは、何時何事が起こるか分からないという思いを強くしました。

 

牟岐町全体で五十二名の方々が犠牲になられたとのことですが、その中には私の知人もいました。牟岐川岸にお宅があったキャンデー屋のIさんのおばあさんもそのお一人ですが、この方は私の縁談の世話をしてくださっていたのですが、亡くなられたばかりに、私も結婚が遅れました。

 

またIさんの近所で今は亡きIさんのお宅がありました。彼は私の小学校の同級生で、小松島高校の先生になった方ですが、津波には勝てず、屋根の上に登ったまま田の中へ流されて行ったそうです。

 

私の父の里が海部町の中山で、この年の末に見舞のため浅川を通りました。その時の余りのことに呆気にとられたのは、何と道路渕の田の泥がことごとく流され、その跡には人の頭程もある大きな石が流れ込み、二度と米作りができない河原になっていることでした。浅川は、その湾の形の関係で、牟岐以上の大被害になったようです。

 

◆「海が吠えた日」は、牟岐町においてまとめられた「南海道地震津波の記録」です。

詳しくは、牟岐町ホームページをご覧ください。

 

【参考サイト】

牟岐町ホームページ

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